酒に酔ってゴキゲンなときなど、自分なりの自然観、科学観を居合わせた人にシツコク話すことがある。そこに展開される内容は独りよがりの最たるもので、常識的な自然観、科学観を有する人には甚だ奇異に受け取られている、と思われる。たとえば、進化論がぼくにはどうしても納得できない。最近、NHKの自然科学番組には必ずといっていいほど進化論が顔を出す。進化論は科学なのだろうか。進化論に則った解説を聞いていると、その解釈があまりに恣意的に感じられ、いたたまれない気分になってくる。生命現象に対するアプローチも常識的ではない。生物は、どう考えても理屈の分かった者が設計したとしか、ぼくには思えないからだ。奇跡と断じたくなるその精妙さ。考えるたびに鳥肌が立つ。とまあ、この手の変テコなイカモノ科学談話をぼくの周りの人たちはいつも聞かされ続けているのである。迷惑な話だと思う。
さて、最近読んだ雑誌に次のような記事を見つけ、なんとなく、我が意を得たり、的な気分になって勝手に喜んでいる。以下、雑誌 風の旅人より、生物化学者 村上和雄「遺伝子は一刻の休みもなく働いている」より抜粋。
遺伝子は、情報を世代を超えて伝えるだけではなく、すべての細胞の中で、一刻の休みもなく見事に働いている。この働きは、私たちの意志や力だけでは到底不可能であり、人間業ではない。十年以上前から私は、この大自然の偉大な働きを「サムシング・グレート」と呼んでいる。私はサムシング・グレートは目に見えないが、たしかに存在すると思っている。大自然が長い年月をかけ、丹精こめて創り上げた遺伝子の姿を眺め、その絶妙な働きを知るとき、その存在を確信する。世の中には、目に見えないもの、現在の常識や知識で理解できないものはいっさい無いと思っている人が多い。しかし、「いのち」に関する知識に限っても、生命科学や現代科学で明らかにされているものは、ごく一部でしかない。したがって、常識や現代科学で理解できない現象のほうがはるかに多くあり、その存在を認めないという態度は科学的でない。私たちは、幼い子供のような素直な目で、こざかしい常識を捨て、物事を眺めてみることが必要である。
“科学的な態度” への4件の返信
コメントは受け付けていません。
むずかし~で・・ごわす!
良くわかりませんが・・
こないだダヴィンチを見に行って思いました。
人間の体のバランスとか筋肉の動きとか科学的に数字的にいろいろ分析して解明し尽くして描かれた絵。
実は・・私は全然響きませんでした。
人間の生きた細胞を感じるのは、「わっッ!」という作者の感動がストレートに伝わった時。
???あら?そういう話じゃない・・?
こらまた・・・失礼しました。(smile)
akkoponさんの言いたいこと、よぉ~くわかりますがよ。
「わっ!」とか「げ!」という話でしょ?(笑)
出合った瞬間、心臓をワシヅカミにされるような。
刃渡り1メートルの刀でブスッとヤラレルような。
アタマで理解する以前のモンダイ。
奇遇ですが、最近のぼくのテーマもそれですねん。
予備知識なしに出合って、思い切り感動したい。
ダビンチの作品だから感動するのではなく。
こんばんは~
ブログでは始めまして・・・。
その時の行動などで、そちらに伺ったり、皇徳寺に伺ったりしてるものです♪
「今日は、皇徳寺に伺いました!」
が合言葉で・・・♪と 。o@(^-^)@o。♪
すみません・・・↑とは関係のないコメントで・・・。
また、遊びにきます。
mamayumayuさん、こんばんは~
お久しぶりですね。最近いらっしゃらないなーと思ってたら、皇徳寺のほうに出没されてたんですね(笑)
実は、時々mamayumayuさんのブログにお邪魔してるんですよ。コメントはしてませんけど。内容が濃いので、男のぼくにも見ごたえがあります。当ブログは女性の訪問者が多いし、mamayumayuさんのブログはぜったいウケると思いますので、リンクさせてくださいね。よろぴく~