閉店後、家には帰らず直接通夜に出かけた。今朝方、午前3時に祖母はなくなった。98歳。病院ではなく、老人ホームでなくなった。祖母は普段どおり床に入り、いつものように眠りに就いた。冷たくなっている祖母に、見回りの方が気づいたのだ。と、酔いが回った叔父がいった。その語り口が川の流れのように自然だったせいか、ぼくは祖母の死に、サナギが羽化してどこかに飛んで行ったような印象を覚えた。長生きはいいことだろうか。長生きしたばかりにとても辛い目に会うこともある。彼女はここ数年のうちに二人の子供を亡くしていたが、ほかの子らの計らいによって知らされなかった。それがいいことなのかはわからない。養老孟司は自分の死は一人称、親しい家族の死は二人称、他人の死は三人称(この中には夫、妻も含まれていたはず)で、二人称の死だけが本当の死だと思う、といっている。この法でいけば、彼女は長生きし、本当の死を味わうことなく死んだことになる。
と、書き終わって気がついた。ばあちゃんにも親がいるんだった。ころっと忘れてた。
「長く生きる」っていいことなのか悪いことなのか最近ほんとにわからないです。少なくとも本人の意志が介在しないやみくもな「延命措置」は罪悪であるとすら思います。ともあれ御祖母様のご冥福を心よりお祈りいたします。ご愁傷様でした。
ありがとうございます。
延命措置…考えさせられますね。自然に任せて死なせて頂く自由。
もしぼくが寝たきりになり、かつ意思伝達の手段を失い、かつ、元に戻りそうもない場合、法に背いてでもコンセントからプラグを抜くよう、家族には言ってあります。
でも、それは犯罪になるので、ちゃんと遺書に書いておいて欲しいと家族には言われてます。まだ書いてませんけど。もし、近日ぼくがそうなったら、このコメントを遺書として提出してください(笑)
「長生きしたい人」は「豊かな人」だと思います。いやな世の中だと思います。「死」は自分が体験した時に、意味がやっとわかるのでしょうね。
うちはコーヒー屋なんですが、渋茶が似合いそうな爺さんもいらっしゃいます。実は今朝も開店30分前にいらっしゃいました。年寄りって、何で朝が早いのかな。彼はどこかの校長だったらしいんですが、「最近何も楽しい事がない。することがない」が口癖。
今朝も浮かない顔をしてやってきて、カウンターに座るといきなり大きなため息。
ねぇ、朝からため息なんかつかないでよ。というと、出るもんはしょうがないがね。という。ぼくがブツブツ言うと、次第に元気になって、コーヒーを手に、うれしそうに帰っていく。どうみても長生きしたいようには見えないけど、日々楽しく生きたい風ではありますね。刹那的だな。