
風邪をひいたのが先週の月曜日。ちょうど一週間が経った。
体調はほぼ戻ったのだけど、あいかわらず嗅覚がほとんどゼロ。
嗅覚が無くても、視覚や聴覚のように逼迫した不便さは無い。
慣れてしまったのか、いつもと変わりなく過ごしていた。
夕方、突然嗅覚が戻ってきた。珈琲豆を袋に詰めようとした時だ。
あっ、と思った。懐かしかった。感動した。涙が出そうになった。
エンゾのパスタ
君の太陽は燃えているか
バイク日和
匂いのない日々
風邪をひいたのが月曜日。今日で5日目。
熱は下がったし、頭痛もほとんどなくなった。
じゃあ、完治したのかというと、そうではない。
ぼくは現在、ほぼ完全に嗅覚を失っている。
ハナが詰まっているわけでもないのに。
試しに今、鼻にアンメルツを塗りつけてみたが、ヒリヒリするだけで、まったく匂わない。
当然、困っている。
珈琲の味がわからない。
味はするのだけど、味の数が、かなり少ない。
不幸だとは思わないが、しあわせが少し減っている。
夢の途中
good night
チョーいそがしい一日であった
フラフラするので、もー寝ます
good night.
薬ぎらい

かぜをひいてしまった。いつもなら葛根湯で治るのだけど、さっぱり効かないし、熱が出て吐き気がするので、ついに病院へ行くことにした。病院で熱を測ると38.1度。たいしたことないな、と思いながら受診すると、まず、インフルエンザの検査をします、とのことで、鼻に長い綿棒を突っこまれた。その自分の姿を想像したとたん、笑いがこみ上げてきて死ぬほど苦しかった。検査の結果は陰性。当然だろう。ぼくにはインフルエンザには絶対かからないという確信があるのである。もちろんその根拠は無い。結局、ぼくがかかったのは、ただのカゼ、であった。なぜか少し残念な気がした。ぼくは病院でもらった薬は飲まない主義であったが、今回は受付のきれいな女の子に言われたとおり、全部飲んだ。そして寝た。ぼくは単純なのだろうか。飲んで5分もしないうちに、すべての症状が軽くなり、やわらかい日差しの初夏の草原にいるような気分になって、ふとんをかぶるなり深い眠りに落ちた。これだから病院の薬は怖い。
目が覚めると夜の7時であった。体温を測ると、少し下がっている。いい気分だ。でも、できたらもっといい気分になりたいものだ。早く薬をのまなくては。
加湿中
思考の暗闇に出会う方法

船木亨著「進化論5つの謎」という本を読んだ。以前、店にいらっしゃる常連のお客さんと進化論やアフォーダンスの話で盛り上がったことがあって、そのお客さんが先日「これを読んでみたら?」と、わざわざ持ってきてくださったのだ。でも、あの時と違い、今のぼくは進化論への興味をほとんど失っていて、食指がイマイチ動かず、なかなか読み出せずにいた。でも、読み始めておどろいた。ぼくが興味を失った理由がそこに述べられていたからだ。
たとえば、こんなくだり。以下引用
p102
そもそも進化論において、人間の理性が、宇宙について、また生物について、そのありのままの姿と歴史を捉えることができるようなものとして、なぜ出現することができたといえるのか。もしできていないとすれば、進化論も自然科学も、何もかも人類という生物の知覚世界を前提として推論された妄想であるということになってしまうであろう。
中略
生命の活動は「知る」ということを含みもっているだろうか。地球(自然)は知る存在を生じさせうるだろうか。宇宙はそのような知的生命体を含みうるだろうか。
p188
進化論は、いうまでもなくヨーロッパ的自然観のもとにあり、科学的に自然のすべてを知ろうとする動機のもとで論じられてきた。ヨーロッパ人たちは、おそらく自分たちの自然観は普遍的であり、他の文化の自然観は偏ったものだと考えていることだろう。わたしは、かれらの進化論を検討していくなかで、しかし、それが扱う生命(進化してきた生物たち)とそれを扱う生命(人間の生き方)の同一性を保ちつつ思考しようとすれば、「思考の暗闇」とでもいうべきものに出会わざるをえないと考えるにいたった。思考もまた、生まれるもののひとつであり、みずからが生まれてきた暗闇を知らない思考は無価値である。
————–引用ここまで————–
ぼくはあんなに好きだった、進化論、創造論、IDについて考えるのをぴたりとやめてしまったのだけど、その理由がまさに、考えているうちに突然この「思考の暗闇」にぶち当たったから。
「みずからが生まれてきた暗闇を知らない思考は無価値である」
では、どうすればいいのだろう。
著者が最後に自分の考えを述べてますが、それは昨年秋ぼくが暗闇に突き当たって以来、試行錯誤していることと同じでした。






