さよならをするために

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ぼくは最後のチャンピオンベルトを腰に巻いて南に向かった。
チャンピオンベルトと別れる日がやってきたのだ。
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朝から冷たい雨が降っている。別れを惜しむかのように。
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さようなら、白いチャンピオンベルト

明日は休みなので

今日はいそがしかった。
さっき帰ってきて、缶ビールを開けた。
久しぶり。
いい気分だ。ストーブも燃えている。
炎を見ながら、酒を飲んでいます。いいね。
ぼくは友達が多い。ストーブも友達。
冬も友達。だからしあわせ。
ぼくは酔っているのかな。
コメントの返事は明日書きます。
バイバイ

トナカイをめぐる冒険

いったい、そんなホテルがあるのだろうか。
駅を出たぼくはタクシーに乗り込み、運転手にこう告げた。
「トナカイホテル」
運転手はルームミラーでぼくを確かめると、軽くうなずき、車を発進させた。ほっとした。どうやらこの町で間違いないようだ。運転手は50がらみの陰気な男で、耳から歯ブラシのような剛毛が伸びている。長い年月、寒い土地に住んでいると、こんな耳になるのだろうか。たしかに、ここはぼくが住んでいる町よりずいぶん寒い。ぼくはしばらく窓を流れる風景を眺めていたが、ふと、突然この身に降りかかった異常な事件を確かめようと思い、ボストンバッグを引き寄せた。チャックを開け、紙箱を取り出し、ふたを開ける。なんの変哲もないクリスマスの飾り物。よく珈琲屋のカウンターなどに置かれているアレだ。そう、事の発端は、そこに飾り付けてある妙なトナカイの人形だった。

眠れない夜は続くのだった

魔女の一撃を食らって三日が経った。鏡に映った白いチャンピオンベルト姿の自分が、なんとも痛々しい。しかし、心配は無用である。ぼくの予定では、12月14日に完治することになっている。なぜなら、その翌日が定休日だからだ。つまり、ぼくは定休日にはドライブに出かけることになっている。
(ちなみに魔女の一撃とはギックリ腰のことで、ヨーロッパの一部でそのように呼ばれているらしい)

冬の旅

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人は思いがけず旅に出る。
昨日の朝のことだ。なんの気紛れか、突然目の前に北の魔女が現われ、微笑むと同時に一撃を食らわし、立ち去った。
あえなく冷たいコンクリートの床に沈んだぼくは、うずくまったままテンカウントを聞いた。
それが合図だった。
ぼくが旅に出たのは、その三日後である。

チャンピオンベルト再び その2

あの日から1年が過ぎていた。
まさか、再びこれを手にするとは思いもしなかった。
しかし、その日は再び訪れたのである。
ぼくは納戸の奥から白く輝くベルトを取り出し、腰に巻いた。
その瞬間、割れんばかりの歓声が湧きあがり、あたりは熱気に包まれた。
ぼくはそれに応え、力強く胸を張り、ガッツポーズをとった。
だが、もちろんそれは幻影であった。
ぼくは静かに納戸の扉を閉めた。

自動操縦な一日

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側面に沿ってナイフを入れたフランスパンの切り口にリエットを厚く塗りつけ、レタスとトマト、そしてキュウリをはさむ。それを三つに切り分け、ラップで包む。ポットに詰めるコーヒーは、最近お気に入りのゴールデン・ビートル。さあ、どこに行こう。でも、今日は考えないことにした。とにかく車に乗り、エンジンをかける。そしてぼくは頭の中のA.Cボタンをオンにする。A.Cとはオートクルーズの略。つまり、なにも考えなくても体が自動的に車を操縦し、昼食を食べるのに良さそうな場所にぼくを運んでくれるのだ。やがて気がつくと、車は指宿スカイライン沿線の千貫平自然公園の駐車場で止まっていた。
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ぼくは車を降り、坂を上って公園の奥にある展望台に向かった。だれもいない。ぼくはテーブルクロスを広げてパンを載せ、熱いコーヒーを入れた。遠くで海が輝いている。いい眺めだ。ぼくはのんびりとコーヒーを飲みながら、パンを二個平らげた。あと一個は、次の場所で食べることにしよう。081201_05_2
再び車に乗り込み、A.Cボタンをオンにする。車は勝手にどこかへと走り出した。どうせ海にいくのだろう、と思っていると、車は思いがけず右折し、だだっ広い畑の中に入っていった。
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そこは扇風機の町であった。どこまで走っても扇風機が立っている。
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車は帰路に就いたようだった。バックミラーに夕日が映っている。車は茶工場の横で停止した。
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茶工場と乱立する扇風機の柱が切り絵のようだ。ぼくは熱いコーヒーを飲みながら、暮れなずむ空を眺めていた。
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やがて、月がくっきり浮かんできた。

わたしたちは皆、触れることで生きている

植島啓司さんのコラムを読んでいて、次の文章に感銘を受けた。
生はとても優しく、静かで、捕まえることができない。力づくでは手に入らない。力づくでものにしようとすれば、生は消えてしまう。生を捕まえようとしても、塵しか残らない。支配しようとしても、愚か者の引きつり笑いをする自分の姿が見えるだけ。生を欲するのなら、生に向かって、木の下にやすらぐ鹿の親子に近づくように、そっと、歩を進めなくてはいけない。身振りの荒さ、我意の乱暴な主張が少しでもあると、生は逃げていってしまい、また探さなくてはならなくなる。そっと、優しく、かぎりなく繊細な手と足で、我意をもたない自由で大きな心で、生にまた近づいていって初めて、生と触れあえる。花はひったくろうと手をのばすだけで、人生から永遠に消えてしまう。我意と貪欲に満ちた気持で他人に近づいてゆくと、手の中に掴むのは棘だらけの悪魔で、残るのは毒の痛みばかり。
しかし、静かに、我意を捨て、深い本当の自己の充溢とともに他人に近づくことができる。人生で最上の繊細さを、触れあいを知ることができる。足が地面に触れ、指が木に、生き物に触れ、手と胸が触れ、体全体が体全体と触れる。そして、燃える愛の相互貫入。それこそが生。わたしたちは皆、触れることで生きている。
これはD・H・ロレンス「チャタレー夫人の恋人」第2稿の一節、だそうです。ぼくは比較的、長い時間生きているけど、今つくづく思うのは、この文章にあるようなこと。ぼくが日々足を棒にして探しているものは、遠い異郷にあるようなものではないのです。