きこえない音

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ぼくは本に描かれた世界に没頭していた。
ぼくは何かに熱中すると、なにも聞こえなくなる。
もちろん、ぼくのまわりでは、いつもいろんな音がしている。
冷蔵庫の唸り、エアコンの風の音、スピーカーから流れる音楽。
でも、その時ぼくのまわりの音は消えている。
カサコソカサコソ
音のない世界に音をたてるものがいる。
ぼくは耳を傾け、その主をさがす。
なんだ、君か。

寒さが遠のいて空が明るくなる。
この季節になると思い出す。
悲しみの沼に足をとられ、自ら脱出することを望まず沈んでいった白い馬。
救いはある。
救いなど無い。
だれがそう言えよう。
賢者はどこにもいない。

ヘンシン

機械は与えられた仕事を何度でも繰り返す。
ノーミソは同じことを繰り返すのを嫌う。
ということは、どういうことか。
人は自ら変化し続ける。
今日も言われた。
あい変わらず変わっているね、と。

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昨日は雨だった。ぼくは傘をさしてノースポールを植えた。ぼくはこの白い花が好きだ。園芸用の土と赤玉土と腐葉土をバケツに放り込んで、均一になるように手で混ぜる。腐葉土や大きな土の塊は手で揉み解す。手と土の会話。ぼくの手と会話した土が、ノースポールの棲みかとなる。だから安心。

ラフマニノフな午後3時

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ひどくいそがしい一日であった。ヒマ過ぎるのも疲れるが、忙しいともっと疲れる。ヒマ過ぎなく、忙しくもないのが理想だが、そう思ったとおりにはならない。
3時ごろ、コーヒーを点てて一息ついた。BGMはラフマニノフ、パガニーニの主題による狂詩曲。喜びに似た悲しみ、悲しみに似た喜び。人生のコントラスト。赤と白のスパイラル。

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お客さんが帰られるときに、ぼくはこういう。
「駐車場のモモが満開ですから、ぜひ見ていってください」
するとお客さんは、10人中9人、
「え? モモが咲いてるんですか?」
とおっしゃる。けっこう大きな樹なんだけど、案外見えていない。たぶん、目線より高いところに咲いているから気づかないのだろう。
ぼくの店の下に喫茶店がある。モモは、その店の前に植えてある。
おととい、その店の女主人がこう言って首をひねった。
「変なのよねー。店の前で人が立ち止まるから、入って来るんだろうと思って待っていると、モモだけ見て帰っていくのよねー」

小文字の世界

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佐野眞一著『目と耳と足を鍛える技術』にこんなくだりがあった。最近考えていることに関係してたので備忘として。
『忘れられた日本人』は、政治や経済といった“大文字”の世界とは無縁の“小文字”だけで書きとめられた名もなき庶民の記録だった。私は土佐山中の橋の下で暮らす古老の昔語りや、対馬の老いた漁師の語る懐古談にいいしれぬ衝撃を受けた。
「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった」(「土佐源氏」)と語る元牛飼いの哀切な言葉や、「やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(「梶田富五郎翁」)と語る開拓漁民のたくましい言葉には、手垢のついた“大文字”言葉にない清冽な“小文字”の世界がゆるぎなく定着されていた。
中略
テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい“大文字”言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかなコメントを聞くたび、「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。彼らは同義反復しているだけで、実は何も語っていないのに等しいのである。
中略
世界はニュースキャスターとやらの粗雑な頭よりはるかに大きく複雑である。そしてディテールと謎に満ちている。
彼らが多用する“大文字”に対して“小文字”とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
ちなみに、この本のはじめにこんなことが書いてある。
日本の教育の最大の欠点は、インタビュー技術とフィールドワーク技術をまったく教えてこなかったことである。インタビューやフィールドワークは、何も新聞記者やテレビレポーターを養成するだけの技術ではない。人の話を引き出し、正確に聞き取って、深く理解すること(インタビュー)と、見知らぬ土地を訪ねて、風景と対話し、現地の習慣を身につけること(フィールドワーク)さえできれば、たいていの難関は突破できる。

きょうは啓蟄。冬のあいだ眠っていた虫たちが続々と穴から這い出してくるという、不気味な日。虫が嫌いな人には忌まわしい日だろうけど、虫好きのぼくには、何かいーことがありそうな、ミョーにワクワクするご機嫌な日
Mothra_02