
日の丸弁当は徹底的に無駄を排した究極の美学のもとに考案されているが、その奥に潜むフォースの広がりようは宇宙の闇を思わせるほどに深い。たとえばその白く輝く米粒が埋め尽くす時空の中心で太陽が燃えているという構図は今から400年前にガリレオが説いたあの宇宙観を彷彿とさせる。さて、写真の梅干は、先日伯母がくれたものだ。身内の者が言うのもなんだが、伯母の作った梅干は畏怖の念を覚えるほどにウマい。ウマい、とは、優れた音楽や絵画と同様、人を引き付ける不思議な力のひとつであって、人の場合、それを魅力と呼ぶ。太陽は目には見えぬ強大な力で地球やほかの惑星を引き寄せ運行させている。そう、この世界を運行しているのは求心力に他ならない。宇宙を支配するエントロピーに打ち勝つ力だ。というわけで梅干は常に梅干でなければならない。厚化粧して梅干に似せた梅干はすでに梅干ではない。美しさは内面から滲み出すものでなければならない。本物は自ずと引力を発生し、宇宙の運行にかかわっている。書いているうちにナニを言いたいのか分からなくなってきたので以上で終わろうと思う。ちなみにこの写真は下手な構図の見本とされる、いわゆる日の丸構図である。実は、これが言いたかっただけである。
魚肉ハンバーグな休日
天気もいいし、風もさわやかだ。こんな休みの日には、ぬるめの温泉にでもつかって、道端の花でも見ながらポチポチ歩いて、腹が減ったら青空の下でニッスイの魚肉ハンバーグが入った弁当を広げる、みたいな一日を過ごすのが良いかもしれない。みたいな結論に達した。カメラには最近お気に入りの古いレンズをくっつけることにした。このレンズで撮ると人も風景も適当にボケてくれて、アナログっぽい写真が撮れるのである。
まず、予定通り某温泉に到着。外湯につかって、空を見ながらぼーーっとしていると、体のほうも、「ん? 今日は休日らしいぞ。じゃあぼくもぼーっとしよ~」という感じで、ぼーっとしてくる。
身もココロもぼーっとしてきたところで、温泉を後にし、車は山をひとつ越えて某植物園に着いた。
園内を歩いていると、あちこちでアジサイが咲いている。
梅雨も間近だ。
ニッスイの魚肉ハンバーグにマヨネーズをかけたのが入った弁当を広げる。ぼくがかつて日本人らしい日本人だったころ、弁当に魚肉ソーセージや魚肉ハンバーグが入っていると涙が出るほどうれしいものだった。ような気がする。
魚肉ハンバーグ弁当を食って、園内をぶらつく。サーロインステーキクラスの贅沢な休日とはいえないが、今日もいい気分だ。
好きなことしてる?
ある兄弟の会話
water blue
ぼくの白い花
急いで家に帰ったわけ

ここ数日、ぼくは庭に置いた小さな水鉢を熱心に覗き込んでいた。昨年暮れ、ぼくは珈琲を買いに来るお客さんからスーパーの袋に入った泥のかたまりをいただいた。それを教わったとおりに水鉢の底に沈め、毎日飽きることなくそれを眺めていた。やがて泥のかたまりは芽を吹き、丸いつやつやした葉を水面に広げていった。
一週間前、ぼくは水の底に小さな蕾らしきものを認めた。それはみるみる大きくなって、水面に頭をもたげ、そして今朝、まるで定時を知らせる精妙なからくり時計のように、おもむろに膨らみはじめたのだった。ぼくは急いで鞄からカメラを取り出し、その様子を記録した。しかし、すでに家を出る時刻をかなり過ぎている。ぼくは遅刻を恐れるサラリーマンよろしく、開きかけた花を後に家を出たのだった。
帰宅し、駐車場に車を停めると、ぼくはまっすぐに水鉢に向かった。完全に開いた白い花を見るために。

道は星の数
ぼくが住んでいる皇徳寺から川辺町(南九州市)へ行く道は、いくつもあるけれど、ぼくのお気に入りは、川辺ダムを経由していく道。景色が開けているし、交通量が少ないこともあって、気分よく走ることができる。途中、川辺ダムに車を停めて、コーヒータイム。

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初夏の日差し、空は秋色

デジイチに古いレンズをくっつけて、ドライブに出かけた。

古いレンズだから、ピントは手で合わせる。時間はたっぷりあるので、のんびりとピントを合わせる。遅いからといって、だれも怒ったりしない。風の音、鳥の声、川の流れる音。今日は、いつもとコースを変え、ダムの横を通って南九州市の岩屋公園に走った。

川のそばのベンチでランチタイム。パンに手作りリエットをはさんで食べる。珈琲はもちろん、某珈琲店の珈琲。

アサーッ! なわけないか

このはし、渡るべからず。

崖になにか彫ってある。

帰りに、中山インターチェンジ近くの園芸屋さんでアイビーゼラニウムというのを買った。













