朝起きるとまず、先週受けたメタボ検診の結果を聞くために近所の病院に出かけた。予想通り何一つ問題はなかった。ただ、運動不足がたたって、脂質検査という項目の数値が少し高めだった。というわけで、今日から毎日走ることにした。道路を走るには運動靴やトレパンが必要なので、それらを買うためにイオンに出かけた。まず靴屋に行って、目が合った店員に「運動靴の一番安いのはどれけ?」と言うと、ニコニコしながら「こちらです」と、通路に面した展示台に案内された。そこには5種類くらい似たような靴が並んでいた。どれも3980円。黒が一番高級そうに見えたのでそれを買った。トレパンとシャツはユニクロで適当なのを選んだ。家に帰ると、靴を足になじませるためにスリッパ代わりに履いてまわったが、音がうるさいので途中でやめた。走るのはもちろん日没後。ぼくは人の視線を浴びながら堂々と走る勇気はない。できれば忍者のように、こっそり走りたい。いよいよ夜が近づいてきた。すると、激しく雨が降り出した。なんてこった。

1Q84と父の日と
村上春樹の1Q84を読むにあたって、発売当日のニュース記事 ・・・担当者は「村上さんの作品については、読者から『予備知識なく読みたい』という意見が多いため、内容紹介をしなかった。真っさらな状態で読んでもらいたい」としている。・・・ に従い、予備知識ゼロのままで読もうと考えた。そこでネットなどに出始めた1Q84のあらすじや書評はすべてパスしながら読書中。読むのがひどく遅いので、まだ2冊目に入ったばかり。というわけで、とりあえずここで感想。
ん~~、なんだかこれって、ユングな世界っぽい。ボク、こういうの大好き!ウフ。
ぼくはこの本を手にする前日、無性にピンクフロイドのThe Dark Side Of The Moonを聞きたくなったのだけど、これって、もしやシンクロニシティの一種?
ところで、ぼくはこの作品を某F少年から借りて読んでいるのだが、息子は自分の金で買って読みはじめた。息子は村上春樹のファンらしいのだ。ファンは人から借りたりせず、買うのである。かも。今、ふと思い出したのだけど、以前、息子と村上作品の話をしていたとき、話の流れ上「父親殺し」という言葉をぼくは使った。ユングやフロイトが論じているあれだ。ぼくは何気なく使ったのだけど、その時息子はビクッとし、引き攣った笑いを浮かべた。常識的で言葉に敏感な父親だったら、息子を前に「父親殺し」なんて物騒な言葉を持ち出したりはしないだろう。折りしも今日は父の日。息子は1Q84という物語からどのような示唆を受けるだろう。父として(父としての自覚はかなり低い方だが)興味深い。
夜のともだち、その1
どっちにする?
というわけで今夜は白桃TKG

数日前、いつものようにネットをうろついていると、ふと、怪しげな食べ物の写真が目に留まった(上の写真)。何かと思ったら、それは岡山県の名産、白桃を使った「岡山特産桃たまごかけ」なのであった。
折良く、わが家の冷蔵庫には果樹園を営んでいるお客様からいただいた、おいしい桃がたくさん入っている。というわけで、ぼくはさっそく試してみることにした。

スローなヒビにしてくれ
キューリーな日々

毎日きゅうりを食べている。たぶん、明日もきゅうりで、明後日もきゅうり、そしてその次の日も次の日も、ずーっとずーっときゅうりだ。なぜなら、当店のビルの屋上に死ぬほどきゅうりが生っていて、ほうっておくと腐って虫が湧き、それを殺すと風の谷のナウシカに出てくる虫が怒って襲ってくるかもしれないからだ。ちなみに、そのきゅうりの肥料は当店で発生したコーヒー粕である。その意味においても、ぼくはその責任を果たさなくてはならない。なお、きゅうりには脳の働きを活性化させる働きがあり、あのキュウリー夫妻はそのおかげでノーベル賞をとった、という話はまだ聞いたことがないが、このコーヒー粕で育ったきゅうりを毎日食べていると、何かしら脳の具合がいつもと違っているような気がするのは気のせいだろうか。
消えた時間
近所の病院でメタボ検診を受けてきた。ついでに胃カメラも飲んできた。胃カメラについては、麻酔で眠っている間に検査をします、とのことだった。麻酔注射のあと、すーっと意識が遠のき、気がついたら、窓のある部屋のリクライナーに寝かされていた。なんだかだまされたような気分だった。ほんとうに検査は行われたのだろうか。第一、口にカメラを入れられた覚えが、まるでない。ぼくには検査の記憶がまったくなかった。それで、奇妙なことが起こった。眠りから覚め、ややあって、ぼくは診察室に呼ばれた。先生が、胃の内部の写真を見せながら説明を始めたとき、すぐに違和感が立ち上がった。
「すみません、これ、だれの胃ですか?」
もちろん、口に出して言ったりしなかった。でも、ぼくには胃の中を見てもらった記憶がない。これはぼくの胃ではない。でも、信じるしかなかった。胃の入り口辺りが少しただれている、とのことで、それ用の薬をもらって帰った。狐につままれたような気分だった。
麻酔をした後なので、遠出のドライブは避けたほうがいいでしょう、といわれたので、家に帰ってじっとしていた。久しぶりに庭に出て、じっくり見てまわると、ソテツがずいぶん大きくなっていることに気づいた。おおむね、ほぼ確かに、時間は流れている。

ギョーザとヤキメシ
店が終わったあと、某駅ビルに映画を見に行った。はらが減っていたので、踏切横の餃子の王将で餃子と焼飯とトリの唐揚げを食った。ここの餃子は、けっこう好きだ。今、感謝祭とかで、通常200円が150円。安いよな~。カウンターに腰掛けて焼飯なんか食っていると、学生のころや、安いアパートで生活をしてた時のことを思い出す。肝心の映画は、ぜんぜんおもしろくなくて、ひたすら眠かった。
君のためなら死ねる。かも

密かに魔女と呼んでいるお客さんがいる。ある朝、開店前に珈琲豆を焙煎していると、明かりの消えた店のカウンターに、だれか座っている。驚いてそちらに目をやると、
「ねえ、一杯、飲ませてくれる?」
明かりをつけると、一目で高級品とわかる衣装をさりげなく着こなした年配の女性が微笑んでいた。以来、魔女はたびたび店にやってくる。魔女は日本舞踊と活花の先生をやっていて、けっこう忙しい。カウンターに座ると、いつも大きなあくびをする。そして言う。不思議なのよね、ここに来るとあくびが出るの。先日、魔女はこんな話をした。うちのだんなは、とっても優しいのよ。何でもやってくれるの。昨夜は、いただいた魚をさばこうとしてたら、怪我をするから、といって代わってくれたの。いつもそんな調子なのよ。うふふ
ぼくには彼女のご主人の気持ちが良くわかる。ご主人は、彼女の喜ぶ顔が見たいだけなのだ。彼女の微笑みには、不思議な力がある。おそらく彼女は気づいていないだろう。いや、気づいていないからこそ発現する力だ。無自覚な微笑み。とりわけ美人というわけでもなく、歳もぼくよりかなり上だ。
人としての幸せと男の幸せは、もちろん別だ。男としての幸せは女あってこそのもの。先日読んだ、分子生物学者、福岡伸一の「できそこないの男たち」という本に、生物のデフォルトはメスであって、メスにとって便利なようにカスタマイズされ、作り出されたのがオスである、みたいなことが書いてあった。つまり、元来オスはメスの召使いなのである。奴隷といってもいい。男はそのご主人である女を護り、おいしい食事を与え、楽しませ、母から預かった遺伝子を遠くに運ぶためにつくられた。しかし、周りを見渡してみると、実際にはそのようになっていない。ヒトという生物に限り、主人と召使いの関係が壊れてしまっている。これを生物界の一員として正常化させるにはどうすればいいのだろう。そのヒントは前述の魔女のくだりにある。男は女の無自覚な微笑みに抗うことができないようにつくられている。女のための労苦は、その代価たる微笑によって雲散霧消し、喜び、幸せに転化する。そのinnocenceなスマイル、天上の微笑みを後天的に身につけることは可能なのか。それは意外と簡単かもしれない。自然の掟でそうなるのだから、自然に還ればいい。前述の魔女は日本舞踊と活花の先生だ。芸を極めるには、一度、自我を殺さなくてはならない。自我の消滅は全てになることと同じだ。それは、自然になる、ということだ。自然になる、とは、魔女になることだ。魔女とは風と同様、自然なるもの、なのである。自然になることができれば、意識せずとも必要に応じて天上の微笑みが生ずることになる。女は幸せになり、それに傅くことで男も幸せになれる。めでたし、めでたし。
(ほんとか?)





