
先日、ぼくのページにもリンクさせてもらっている、そううつだものさんの記事の写真を見て、少し、いや、かなり感動した。なんというコントラスト。こういう毒々しいまでのコントラストをアクロバット的にバランスできるのはコダックの撮像素子しかない。ような気がする。彼女のカメラに使われている素子がコダックのものかは知らないけれど。
と、いうわけで、10年前まで使っていたコダックのデジカメを復活させることにした。ボディーを布で拭き、レンズの汚れを取り、電池を入れてスイッチON。反応なし。電池を出し、再び入れなおし、スイッチON。やはり反応なし。それでもしつこく同じことを繰り返していると、ついにコダックは長い眠りから覚めた。さっそく屋上に上がって何枚か写真を撮ってみる。パソコンで見てみると、ひどく眠たそうな絵だ。冬眠から覚めたばかりだから仕方がない。
P.S.
写真を見て気づいたのだけど、日付の設定を間違ってました。

ひまわりの丘
ベッドから起きあがり、カーテンを開けると青空が見えていたが、それは夏の青空ではなかった。青い空に白い入道雲が力強くわきあがる夏の青空であれば、迷わず海に行って泳ぎまくるはずだったが、こんな空ではそんな気分にはなれない。雲の形がカッコ悪すぎる。車は珍しく北に向かって走り出した。目指すは、あのソフィアローレン主演の映画「ひまわり」に出てくる某国のひまわり畑に来たような気分にさせるかもしれない、某都市農業センターのひまわり畑。

駐車場に車を停め、ドアを開けると、ふとどこからか、あの「ひまわり」のテーマを演奏するピアノのメロディーが聞こえてきた。ような気がしたが錯覚だった。ヘンリーマンシーニによるあの深い悲しみを湛えた美しい旋律は、どこか翳のある男と呼ばれて久しいぼくのテーマにふさわしいといえよう。センターに入ってすぐのところに、目的のひまわり畑はあった。あったのだが、時はすでに遅く、盛りを過ぎたひまわりの花びらは茶色く変色し始めていた。でも、それでよかったのかもしれない。ぼくの記憶の中で永遠に揺れ続けるひまわりは、たぶん、こんな感じなのだから。

そのポピュラーな大柄なひまわりの向こうに、見たことのない、やや小振りなひまわりが満開を迎え、風に揺れながら、遠い見知らぬ国の歌を口ずさんでいた。しかし、ぼくの目にはどう見ても彼らはひまわりには見えなかった。

でも、背後に回ってみると、そのうなじ?の辺りが、まさにひまわりのそれだった。枯れはじめたひまわりを見たせいで、ぼくは少しさびしくなっていた。枯れてうなだれたひまわりは、夏の終わりを告げているようにしか見えなかった。

ひまわり畑の横では色とりどりのヒャクニチソウが一面に咲き誇っていた。

ヒャクニチソウなんか、どうでもよかった。
でも、その中に黄色い大きな花がひたむきに空を仰いでいるのが見えた。

ぼくは見えない糸に引かれる夢遊病者のように、ふらふらとそちらに歩き出していた。

明日は休みです
眠い一日であった。
なぜ眠かったのかというと、昨夜、突然おなかが痛くなって目が覚めたからである。
たぶん、食い過ぎのせいだ。
壁の時計を見ると4時前であった。
強力わかもとを9錠飲んで、再び床についた。
眠いと仕事がテキトーになるのが良くない。
眠くても珈琲豆はしっかり焼く。失敗は許されない。
しかし、接客がいい加減になる。失敗が許されるという意味ではない。
もっと書きたいけど、本当に眠いので、もう寝ます。
二〇二六年四月
昨夜見た「渚にて」、良かったなぁ~
1959年の作品なんだそうで、白黒だった。
この映画を見てて、あるSF小説の情景が浮かんだ。
それはブラッドベリの火星年代記。
その中の一編「二〇二六年四月」
そこには人の孤独の本質が描かれている。とぼくは思う。
だれもが孤独に生まれてくるのに、それを忘れてしまう。
明るい場所に置かれたロウソクの火は見えにくい。
闇の中に揺らぐロウソクの炎は力強く、まばゆい。
On the Beach
白い天使の羽
昨夜は、一人、部屋を暗くしてマイケルジャクソン特集を見ていた。
プロモーションビデオ、YOU ARE NOT ALONE を見ていたら泣けてきた。
酒を飲まずにはいられない気分になった。
ブドウの色
9500時間後

焙煎室の作業用蛍光灯が切れた。この照明器具に初めて火を灯したのが2000年の7月。丸9年になる。この照明は焙煎作業中のみ点灯するので、一日平均4時間点灯したとすると、約9500時間稼動したことになる。ネットで調べたところ、この蛍光灯の定格寿命は9000時間とあるので、無事その寿命を全うしたことになる。実にめでたい。と、それだけなら、わざわざ記事にするまでもないのだが、不思議なのは、器具に取り付けられた3本の蛍光灯が、3本ともほとんど同時に寿命を迎えたことである。一ヶ月前、まず窓側の蛍光灯が事切れ、その二日後に追うように手前の蛍光灯が昇天した。そして今日、最後に残った真ん中の一本がその天寿を全うしたのだった。つまり、3本の蛍光灯は、まるで申し合わせたように三途の川を渡っていったのである。

カボチャプリンはいつもの味だった
休日の朝は目覚めるのが不必要に早い。しかも一度目が覚めると二度と眠れない。ぼくはなんとか眠る努力をしてみたが無理そうなのでベッドから起き上がり、数日前から咲き始めたアサガオの写真を撮ることにした。昨日の予報では今日は晴れとのことだったが、庭に出て仰ぎ見た空は不気味な灰色だった。雲間から日がさすのを見計らって、透きとおった赤紫の花を撮った。

車は南に向かって走り出していた。遠くに青空が見えていたが、やがてそれは灰色の雲に呑み込まれてしまった。車は海岸道路を南に下り、いつしか魚見岳を登りつめていた。わが家の屋上からは魚見岳が見える。ならば、魚見岳からもわが家が見える道理だ、というわけで、北の彼方をじっと見つめてみたが、わが家らしきものは見えなかった。魚見岳を下りて、車は山川漁港の「活お海道」に向かった。前回寄った時は、駐車場が満杯で入れなかったが、今日は空いていた。なにも買う予定はなかったが、手作りウメボシ、漬物、ドラゴンフルーツ(小さいのが2個で300yen)などを買った。

そこから一山超えるといつもの某植物園。広いロビーには綺麗な七夕飾りがしてあった。その願いが書かれた札を読んでいると、妙に切ない気分になった。

園内をぶらぶら歩いて、西洋庭園に行き、ひまわりのソフトクリームという、黄色いソフトクリームを買って食べた。300yen.
「そうか、これがひまわりの味なのか!」といった説得力には欠ける味だった。

某植物園を後にし、開聞岳麓の某ハーブ園に行ってカボチャプリンを食べた。
「そうか、これがカボチャプリンの味なのか!」という、いつもの味だった。

家に帰って、某所で買ったドラゴンフルーツを食べてみた。冷蔵庫で冷やし、二つに割ってスプーンで掬い取って口に入れると
「そうか、これがドラゴンフルーツの味・・・なの??」
という、狐につままれたような味だった。





