風立ちぬ

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漁港近くの食堂で日替わり定食を食べたあと、前から気になっていた「石垣群の里」というところに行ってみた。
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石垣に囲まれた家並みが傾斜地に連なり、独特の景観を作り出している。カメラをぶら下げ、細い坂道を上ったり下りたり。
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おもしろい風景に出会うたびに立ち止まり、カメラを構えるのだけど、うまく撮れない。
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今日はススキを見たいと思って車を走らせてきたのだった。海が見えるいつもの丘に登っていくと、昨日某F少年が予言したとおり、丘の手前のなんとか農園のコスモスがほぼ満開だった。風が吹くと波が寄せるように揺れるコスモス。ああ、ここに来てよかった。
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ススキはまだのようだった。暑い日が続いたせいかもしれない。
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家に帰り着き、屋上に出た。夜空には薄雲が広がっていたが、その向こうで小さな星が瞬いていた。やあ、また会えたね。ぼくは君たちがいないと生きていけそうにない。

ハンドルを握れ

そう、「ふりかかった災難こそが人生のきっかけ」ということである。だれの身にも降りかかる災難は、その人がどう生きるべきか考える磁石の針のようなもので、災難は災難でも、ただそこから脱け出せればいいというものでもない。何も考えずそこをスルーしてしまうと、人生はまったく味も素っ気もないものになってしまう。つまり、災難はただの災難ではないのである。それによって初めて人生が立ち上がる契機となるもので、それなしにはすばらしい人生など存在し得ないことになる。
「生きるチカラ」とは、その人がもっとも大きなダメージを受けたときに動き出すチカラで、ほとんど機能しないほど微弱なこともあれば、それまでの人生が一変してしまうほど強力なこともある。その働きを見つめながら、生きるとはどのようなことなのか改めて考えてみたいと思ったのである。
以上、たま~に更新される植島啓司さんのコラムからの引用。なぜこれをここで引用したかというと、今日いらしたお客さんが、「大病を患い、人生観が変わった」という話をされたからだ。ぼくは数日前にこのコラムを読んでいたので、その話に何か符合するものを感じたのだった。「災難はただの災難ではないのである。それによって初めて人生が立ち上がる契機となるもので…」と、植島さんは言っている。初めて人生が立ち上がる、とはどういうことだろう。それまでの人生はなかったに等しい、ということだろうか。ずいぶん前のことだけど、ある夜、ぼくの娘がその弟に説教をたれているのをたまたま耳にした。何があったのかは知らないが、たしか、「他人の人生を生きるんじゃない、自分の人生を生きなさい」みたいな内容だった。娘から見ると、どうやら息子は他人の人生を生きているらしいのだった。まるで他人の運転する車に乗せてもらって気楽な旅を続けている人のように。しかしそこに思わぬ災難が降りかかるのである。ある日、車は急峻な崖に面した細い下り坂を走っていた。と、突然車のブレーキが利かなくなり、頼りの運転手は失神してしまう。さあ、ハンドルを握るのはあなたしかいない。

ノーミソのお掃除

脳みそを取り出して自分で掃除できたらどんなにいいだろう。あのしわくちゃのかたまりに石鹸をなすりつけ、ブラシでゴシゴシこする。ミゾにつまったドロドロの汚れがじゃんじゃんとれて、新品みたいにピッカピカ。というイメージで、休日を過ごすぼく。
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いつもの貸切温泉で、のんびり湯につかる。
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いつものハーブ園で、ハーブランチ。
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いつもの植物園をウロウロ