今日から夏休み。で、まず何をするかというと、店の大掃除。機械を分解し、掃除をしてまた組み立てる。工具片手に機械を組んでいると、つまらない考えが脳裏をよぎる。死が人生に含まれているように、仕事もまた遊びに含まれているんじゃないか、とか。つまり、死を意識して日々過ごすことで人生が輝きを増すように、遊びもまた負荷の大きい仕事によって密度が増す、なんて・・・ブツブツ
差し入れ
先日手に入れたコンデジで撮ってみた
夜はバーベキュー。お盆に肉食っていいのかな~
22時45分頃、約5秒間隔で点滅する謎の飛行物体が、ベガ~デネブの北側をひどくゆっくりしたスピードで東に移動して行った。あれは何だったんだろう。かなりの高度だったから、ペルセウス座流星群を観測していた人たちも気づいたんじゃないかな。で、肝心の流星は、空がかすんでいるせいもあって、今のところまだ1個だけ
昼前、この辺りじゃ見かけない女の子がぞろぞろ店に入ってきた。おそらく隣国のツアー客。ここは喫茶店じゃないよ、コーヒー豆を売る店だよ、と言うと、それでいいの、とホットパンツのきれいな子が答えた。おすすめのコーヒーは?というので、人気のコーヒーをいくつか挙げると、それでいい、豆のままで。という。どこから来たの?と聞くと、ホンコンから、と。思わず、ジャッキーチェンがいるあそこ? と言うと、一同、そうそう、といって笑い始めた。言った後で思った。ジャッキーチェンって、まだ生きているんだろうか。彼女らにはちと古過ぎたかな
そのむかし、キュウリは夏を代表する野菜だった。キュウリが好きな人は夏が待ち遠しかった。そんなささやかな楽しみも今はない
一方、いうまでもなくスイカは夏の食べ物だ。なにせ原産国はゾウやシマウマがうれしそうに走り回っている、あの熱帯アフリカ。サハラ砂漠には見たこともない巨大なスイカがあちこちに転がっているという(信じないでください)
夏の楽しみは数え切れないほどあるが、例えば今日みたいな蒸し暑い夜に冷えたスイカを包丁で割る、という、どこか儀式めいた遊びもその一つ。包丁を入れる。その外観からは想像できない、鮮やかな赤が飛び出す。デュシャン→ウォーホル的芸術がふいにデジャビュするアーティスティックな瞬間(なんのこっちゃ)
しかし、肝心なのはややこしい芸術論ではない。ただ、目の前のスイカをおいしく食べる。それだけ。エランヴィタール。そこだよキミ
今日は父を病院に連れて行く日だった。なにかの検査だったが、特に問題もなく、予想外に早く終わったので、海の近くでスシでも食おう、ということになった
台風が去った海は波がまだ高く、サーファーたちが波に乗って楽しんでいた。後で知ったのだが、食事代は父が出したそうだ。そうと知ってたら、もっと高い寿司屋に行くんだったのに
父を家に送り届け、自宅に帰ると、時計はまだ2時を少し回ったところだった。カキ氷でも食いたいね、ということで、港町にある某ジャズ喫茶にシロクマを食べに行くことにした。たしか、月に一度、月曜が休みだったはずだが、まさか今日ってことはないだろう
しかし、行ってみると店のドアに「定休日」の看板。ぼくは大急ぎで脳内のデータベースをサーチし、近くでカキ氷をやってそうな店をピックアップ。同時に車をターンさせてベーグルで有名なあの店に進路をとった。山の途中にある風通しのいい店内はクーラーなどなく、カキ氷を食べるには最高の様態といえた。ヨッパライ某はお茶とセットになったナントカというカキ氷、ぼくはマンゴーのカキ氷に炙ったベーグルを付けてもらった
某コーヒー店は台風の中、営業しています。
片づけないといけない仕事が山積み(笑)
ある本を読んでたら、次のようなくだりに出くわし、ため息が出た。やれやれ、まったくその通り、この年になってやっと気づくなんて
頭に起きたこうした無意識の波が、意識の白い、滑らかな砂の上に偶然にどんな宝を、どんなに見事に磨きあげられた小石を、或いは海の底にあるどんな珍しい貝を投げ出すか解らない。ほら貝、つめた貝、或いはたこぶねさえもが打ち上げられるかもしれない。しかし、それをこっちから探そうとしてはならないし、ましてそれが欲しさに砂を掘り返したりすることは許されない。海の底を網で漁るようなことをするのはここでは禁物で、そういうやり方で目的を達することはできない。海はもの欲しげなものや、欲張りや、焦っているものには何も与えなくて、地面を掘りくり返して宝ものを探すというのはせっかちであり、欲張りであるのみならず、信仰がないことを示す。忍耐が第一であることを海は我々に教える。忍耐と信仰である。我々は海からの贈り物を待ちながら、浜辺も同様に空虚なってそこに横たわっていなければならない。
アン・モロウ・リンドバーグ(著) 海からの贈物 より抜粋