雨の街

ヨッパライ某が映画を見たいというので久しぶりに街に出た。君の膵臓をたべたい、という物騒なタイトルの映画で、ヨッパライ某はこの原作を20回以上読んだのだという。そんなにおもしろいの?と聞くと、うん、わたし的にはね、とのことだった

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映画館を出ると雨が降っていた。青い染みのような喪失感が心のどこかに薄く広がっていた。女の子のあるセリフがそうさせたのだ。秋風が吹きはじめるこの時期に見るにはちょっと辛い映画だった。
近くのパスタ屋でスパゲッティでも食べようと歩き出したが、入り口のシャッターに「今日は事情により休みます」との貼紙が。最近、こんなことが多い。しかたなくビクター犬のいる洋食屋に行き、オムライスを頼んだ。主人公の女の子はこの小さな旗を見て、なんていうだろう

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本屋をぶらついてるうちに、いつもの自分に戻り、カキ氷を食べて家に帰った

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夕食後、ヨッパライ某から本を借りて、あのセリフを探し始めたが、背後にふと冬の気配を感じて本を閉じた

青い花

宇宙の不思議、という本を読んでたら、その巻末の解説に次のような詩が紹介されていて、ちょっと感動。

ウィーン大学におりました時に、ふと立ち寄った本屋がございました。モーツァルトのお葬式をやった寺院のすぐ横にある本屋ですが、ノヴァーリスの詩集を見つけました。その時、頭の上からもの凄い光の矢が脳天を突き刺したような感動を覚えました。こんな詩があったんです。

すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。

著者によれば、原文に忠実に訳せば「さわっている」ではなく、「ひっかかっている」になるそうです。

すべてのみえるものは、みえないものにひっかかっている。
きこえるものは、きこえないものにひっかかっている。
感じられるものは、感じられないものにひっかかっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにひっかかっているだろう。

ぼくは写真を撮るのが好きだけど、この「みえないもの」「きこえないもの」「感じられないもの」「考えられないもの」を写そうとしている気がします

さらば夏のサソリ

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さそり座のSが西に大きく傾いている。その上にあるのは土星。今日は天の川がよく見える。ぼくはアイスクリームを食べながら、それを眺めている

ある晴れた日に

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ある晴れた日、だれもいない砂浜の波打際を目的もなく歩く。と、なにやら、すばらしい(哲学的な?)アイデアがモーツァルトの音楽のようにポカッ、と浮かんで思わず足が止まる。が、ボキャブラリーが貧しいためか、それを言語化できず、記憶にとどめることができない。悔しいけどどうしようもない。でも、そんな形にならなかったポカッ、やモヤモヤも、脳の記憶領域にはrawデータ状態で残っているらしく、ずいぶん後になって、本を読んでいるときにそれが思いがけず表出、展開することがある。で、何を言いたいのかというと、本を読むことはそういう面でも有益だということ。(今読んでいる本で立て続けにそれを実感しております)

A LONG VACATION 3日目

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というわけでぼくの長い休日は終わった。この三日間、ぼくは自分の時間を自由に使った。三日のうち二日は仕事をしたが、それはそうしたかったからそうしただけ。自由の質を高めていくと相転移が起こり、質は量に転化する。ウルトラマンはこの星で3分しか生きられないが、つまりそういうことなのだ

A LONG VACATION 2日目

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明日は雨だというんで、ドライブに出かけた

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海に面したレストランで昼食をとっていると、思いがけない人に遭遇。思わず「生きてたんですか!」と叫んでしまった

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レストラン横のアロエ畑