スパゲティを食べて映画をみた

今日は定休日。一週間に一度の貴重な休み。でも丸一日自由に使えるとは限らない。今日は午前中、仕事のために街に出る必要があった

仕事を終え、スパゲティ屋で昼食を済まし、いつものように本屋でぶらぶら。レヴィナスの本で薄いのがあったら買おうと思ったが、どれも分厚く、しかも高かった。養老孟司の「遺言」という本をパラパラめくったら、なんだかおもしろそうだったのでこれを買った

デパートの屋上でしばし休憩。外のベンチで脚を組んでパンを食べている女性。フランス映画の主人公みたい

せっかく出てきたので映画を見た。あまり期待せずに見たら、なかなかおもしろかった

去年の明日

お客さんとコーヒーを飲んでいるところに電話がかかってきた。
「お店をやめられたって聞いたのですが、本当ですか?」
どうやらぼくの店はぼくの知らぬ間に無くなってしまったようだ。
「ええ、長年続けてまいりましたが思うところがありまして」と切り出したい衝動にかられたが、まじめそうな女性の声だったのでやめた。

夕方、ひどくお腹がへってがまんできなくなった。冷蔵庫をあさったが何もなく、棚のどこかにお菓子でもないかと探したらカレーが出てきた。たしかこれはカメラ美女のお土産だった

賞味期限は4月7日。ワオ!明日だ!

ぎりぎりセーフ!おいしかったです。でもよく見たら去年の明日だった

人と言葉

昨日投稿された「内田樹の研究室」の記事「言葉の生成について」がおもしろかったです。「国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないか」という持論が展開されます。以下に一部抜粋します。

たいせつなのはどういう「ヴォイス(voice)」を選ぶかということだと思います。「ヴォイス」というのは、その人固有の「声」のことです。余人を以ては代え難い、その人だけの「声」。国語教育目標は、生徒たち一人ひとりが自分固有の「ヴォイス」を発見すること、それに尽くされるのではないかと僕は思います。
もう10年以上前ですけれど、『クローサー』という映画がありました。どうでもいいような恋愛映画なんですけれど、その中に一箇所、印象深いシーンがありました。ジュード・ロウとナタリー・ポートマンがタクシーに乗り合わせる場面です・・・

夜の散歩

夕食後、ヨッパライ某を誘って散歩に出た。空のてっぺんに太った半月が掛かっていた。遠くを救急車が走って行った。静かだね、と彼女が言った。いつもこんなだけど、と思ったのでぼくは黙っていた。桜がいっぱい咲いていた。桜餅の匂いはする? と聞くと、しない、と言った。昨日はどうだった? と聞くと、した、と言った

8年

わが家に新しい電気釜が来た。これまで使ってきた電気釜、まったく問題なく炊けるのだけど、内釜の表面の皮?がボロボロ剥けて、見た目がひどい有様になっていた。先日、横浜から帰ってきた娘が、この内釜の姿に恐れをなしたらしく、新しいのを買ってくれたのだ。ついでに洗濯機も買ってくれた。これもまだ使えたのに、ちょっともったいない。ところで、これまで使ってきた電気釜、何年使ったのだろう、と思って調べてみたら、8年近く使っていた。もうそんなに経ったのか。月日が流れるのはほんとに早い

もうねます

外の風景と中の風景が2週間くらいずれている。理由はいろいろ思い当たるが、自分ではどうしようもない。ニュートンのリンゴが引力に逆らえないのと同じ理由だ

上を向いて歩こう

夜、ウォーキングに出るとき、カメラは持参しない。もし職務質問にあったら、めんどうな会話になりそうだから。でも今夜は月食。月食が始まる時刻とウォーキングの時間が重なってしまった。夜空は雲に覆われていたが、雲の切れ間から顔をのぞかせてくれるかもしれない

そういうわけで、ポケットに小さなコンデジを入れてウォーキングに出た。万が一、職務質問にあっても「月食を撮ろうと思って」と言えば済むような気がした。折り返し点の公園を歩いていた時、時計の上に欠けた月が顔を出した。あわててカメラを出し、シャッターを切ったが遅かった。月は隠れてしまった

雲間から月が出るのを待ったが、出てこなかった

しばらく歩いていると、雲が薄くなってきたらしく、時々月が見え始めた

雲が切れ、あちこちで星が瞬き始めた。遊歩道の脇にあった遊具に肘をのせてカメラを固定し、ズームを望遠にして何枚かシャッターを切った。幻想的な光景だった