意外に長いオレの

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今日は定休日だったが、家人が風邪をひいているため出かけなかった。
天気が良かったので松元町の川崎緑化園に出向き、草花の苗を買ってきて植え替えた。植え替えたところで記念撮影。
お、オレって、足が長いじゃん。塀に映った影を見てうれしくなった。

おはよう

日曜日の朝は、日曜日に仕事をしているぼくにとっても日曜日の朝だ。
毎朝走っている道路も、今日は日曜日の顔でぼくを迎える。おはよう。素直にそういえる。
信号を曲がり、長い坂を上っていく。フロントガラス越しに広がる空も、日曜日の顔でぼくを見ている。おはよう。日曜日の朝におはよう。

土曜の朝

ぼくの仕事は、もしかすると毎日が日曜日のように見えているかもしれない。
好きな音楽を聴きながら好きなコーヒーを飲み、お客さんと友達のようにしゃべり、ヒマなときは本を読む。
今の仕事に疲れている人の中には、もしかするとうらやましく思われる方がいらっしゃるかもしれない。
毎日が日曜日。
しかし、問題はそこなんです。仕事をしてるような気がしないのです。

うーむ。

ここんところの日記を読み返して思った。なんだか眉間にしわを寄せて難しそうな顔をして書いてるような、どことなく怒ってるような文章だな。と。書いてる本人はオモシロ半分に書いている場合が多いんだけど。こんなこと書くと、まずいけ。

二人称の死

閉店後、家には帰らず直接通夜に出かけた。今朝方、午前3時に祖母はなくなった。98歳。病院ではなく、老人ホームでなくなった。祖母は普段どおり床に入り、いつものように眠りに就いた。冷たくなっている祖母に、見回りの方が気づいたのだ。と、酔いが回った叔父がいった。その語り口が川の流れのように自然だったせいか、ぼくは祖母の死に、サナギが羽化してどこかに飛んで行ったような印象を覚えた。長生きはいいことだろうか。長生きしたばかりにとても辛い目に会うこともある。彼女はここ数年のうちに二人の子供を亡くしていたが、ほかの子らの計らいによって知らされなかった。それがいいことなのかはわからない。養老孟司は自分の死は一人称、親しい家族の死は二人称、他人の死は三人称(この中には夫、妻も含まれていたはず)で、二人称の死だけが本当の死だと思う、といっている。この法でいけば、彼女は長生きし、本当の死を味わうことなく死んだことになる。

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レジのスターをめざせ

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水曜日はヒマなことが多いのだが、きょうはとても忙しかった。寒い日が続いたので、コーヒー豆を切らした方が殺到したのだろう。車にガソリンが必要なように、ぼくらにはコーヒーが欠かせない。そんなわけで、今日はかなり賑わった。しかし、忙しいとき、ぼくはかなりの頻度でヘマをやる。ぼくとレジスターの相性はA型とB型の夫婦以上に悪い。ぼくがレジの前でまごまごしていると意地の悪いお客さんがニヤニヤ見ている。ぼくは聞きたい。あなたはレジを打ったことがありますか?もぅ、大変なんだから。
ストアーに並んでいる最新のレジスタは、商品に付いたバーコードを読む。うちのレジは安物なので、そんな機能はない。お客さんがレジの前に何人も並ぶと、ぼくは頭の中が白くなる。そんなわけで、今日もヘマをやった。閉店後、レジを締めるとかなりの金額が足りない。
やれやれ。

湯豆腐

急に寒くなってきた。
ムーミン谷のカバたちも、そろそろ冬眠の準備に忙しくなる頃だ。
ぼくは冬眠はしないけど、脳が部分的に休止状態になっていく。ような気がする。
具体的には、注意力が散漫になる、ような気がすることがある。
人の脳はコンピューターではないので、電気さえあれば動くというわけにはいかない。
寒かったり、愛がなかったりするとフリーズしやすくなる。
人恋しい秋の夜。家族に囲まれていても、一人の者もいる。
ま、そんな面倒なことなど考えないで、みんなで鍋でも囲みたいね。

休日モード

きょうは定休日。飽きもせず南薩へ車を走らせる。
運転はヨッパライ某に任せ、ぼくはもっぱら外の景色を楽しんでいた。
水色の空を白い羊雲が流れていく。
さっきから後ろで変な音がする。ゴゴゴ。
「なんだろうね」二人は訝りながらも、たいして気にせず走り続けた。
指宿の街に入ったあたりで、右折車線に移ったドライバーが笑いながら言った。
「パンクしてるよ」
ぼくは少しも驚かなかった。とっくにそのことに気づいていたのだ。ぼくは休みには仕事をしないと決めている。
ぼくのオートクルーズ装置は休み気分に水をさす信号は届かない仕様になっている。

ヌル

彼女の声は耳元でささやいているようであり、はるか遠くから聞こえてくるようでもあった。
なぜそう聞こえたのか不思議だったので、夜遅くまで考えていた。彼女と会うのは久しぶりだ。
交わした言葉は極めて少なかったが、それでじゅうぶんだった。
言葉は心の深いところに沈んでいる。突然、その距離と時間がなくなることがある。
そのむかし、FMチューナーにはヌルメーターというものが備わっていた。
ヌルとはゼロのことで、拮抗する二つの力が等価になった時、メーターはゼロをさす。
この世には同じ人はいないが、ある種同等の力を持つもの同士が向かい合うとき、ゼロの場が生まれるのかもしれない。

魚肉ソーセージ

差入れに魚肉ソーセージの束をもらった。ありそうでなさそな意表を突く差入れ。魚肉ソーセージを手にするのは何十年ぶりだろう。ちょうど腹が減っていたので、端を閉じている針金の輪を歯で食いちぎり、中身をひねり出して食べた。懐かしい味だった。子供の頃は遊び場が山の奥や人気のない海岸だったので、魚肉ソーセージは手軽な携行食として重宝だった。ふと思った。今の子供は何を食って遊んでるのだろう。魚肉ソーセージじゃないよね。