今まで某F少年から借りた「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」を観ていました。久々に、おもしろい映画を見た~って感じ。静かな雰囲気、きれいな映像。そして、時々、ハッとさせる言葉が出てきて、グッとくるんですね。たとえば、
「人生は複雑とは限らない、求めるものを知っていれば」
まじめなぼく
ぼくの記憶によれば、父はまじめな話しをしたことがない。訓戒をたれるようなこともなかった。しかし、機嫌がいいときなど、こんなことを言っていた。
いわく
「わかっちゃいるけどやめられない」
「バカは死ななきゃなおらない」
「逃げた女房には未練はない」
「人を見たら泥棒と思え」
どれも役に立ちそうにない言葉だ。
しかし、ずいぶん昔、こんなことを言ったのを覚えている。
「まじめがいちばん」
ぼくは一瞬耳を疑ったが、それはぼくを諭そうとして言ったのではなく、ふと、なにかの拍子に自戒気味につぶやいたのだった。
「まじめがいちばん」
何の変哲もない、平凡で退屈な言葉。
しかし、ぼくはその言葉が気に入った。
ぼくは、まじめにやれよ、などと人にいう気はない。まじめにやれよ、と、人に言っても無駄だから。それは自分に言ってこそ効果がある。ぼくは自由でありたい。自由とは自分を律することだ。自分と真剣に向き合えば自ずと自由になれる。自由になるためには自分にまじめにならなければならない。というわけで、最近発見したフリーフォントを使って次のような作品を作ってみた。
室外機のある風景
本能的分解
ぼくの帽子
見つめていれば消えていく
今回の田口ランディさんの記事は、なかなか読み応えがあったな~
蒸し暑い夏の夜は、なぜかこういう記事が読みたくなるんだよね。
始めないことには始まらない、その2
時が経つのは早いものである。このまえ花見をしたな、と思っていたら、紫陽花が咲いて入梅し、気が付くともうお盆。そして、いつまでも暑いですねー、なんて言っているうちに年賀ハガキが発売され、あれよあれよという間に大晦日。と、いうわけで、今年も恒例の盆前大掃除を始めたのであった。去年は8月5日に大掃除を開始している。毎日ブログを書いていると、2クリックで去年の今頃ナニをしていたか、すぐに分かってしまう。これは変な感じであるが、かなり便利だ。毎年同じ時期に同じ作業をする場合は特に。ぼくは一連の作業に入る前にイメージトレーニングをする。無駄や危険を回避するためだが、このイメージトレーニングプログラムを組み立てるのに、ブログはけっこう役に立つ。たとえば、一昨年のブログによれば、ぼくは盆前大掃除の最終日に熱中症にかかっている。そういった要素を取り入れながら、作業時間や順序を決めていく。
某珈琲豆屋の夏休み
ぼくのコダクロームその2
先日、ぼくのページにもリンクさせてもらっている、そううつだものさんの記事の写真を見て、少し、いや、かなり感動した。なんというコントラスト。こういう毒々しいまでのコントラストをアクロバット的にバランスできるのはコダックの撮像素子しかない。ような気がする。彼女のカメラに使われている素子がコダックのものかは知らないけれど。
と、いうわけで、10年前まで使っていたコダックのデジカメを復活させることにした。ボディーを布で拭き、レンズの汚れを取り、電池を入れてスイッチON。反応なし。電池を出し、再び入れなおし、スイッチON。やはり反応なし。それでもしつこく同じことを繰り返していると、ついにコダックは長い眠りから覚めた。さっそく屋上に上がって何枚か写真を撮ってみる。パソコンで見てみると、ひどく眠たそうな絵だ。冬眠から覚めたばかりだから仕方がない。
P.S.
写真を見て気づいたのだけど、日付の設定を間違ってました。
明日は休みです
眠い一日であった。
なぜ眠かったのかというと、昨夜、突然おなかが痛くなって目が覚めたからである。
たぶん、食い過ぎのせいだ。
壁の時計を見ると4時前であった。
強力わかもとを9錠飲んで、再び床についた。
眠いと仕事がテキトーになるのが良くない。
眠くても珈琲豆はしっかり焼く。失敗は許されない。
しかし、接客がいい加減になる。失敗が許されるという意味ではない。
もっと書きたいけど、本当に眠いので、もう寝ます。