年末恒例の大掃除を開始した。
明日は休みだ~あさっても休みだ~~、というわけで、今夜は鍋
10年以上前、「なぜ最近ハッピーということばかり考えるんですか」という質問に矢沢永吉さんは次のように答えていた。
あのね、40くらいになったら、「自分ってどういうやつなんだ?」って考えるじゃないですか。僕はね、なんでこんなにがんばって走ってこられたのかと思ったの。それはね、なにか一つ掴んでカタチにしたら、すべてが解決できると思ったから。僕はずーっとどこか寂しかったんだけど、その寂しさも、成功したりお金持ちになったら、全部クリアできると思ってた。みんなが振り向いてくれるこの位置にまでいけたら、不安な部分も全部クリアになると思ってた。ところが、ちっともクリアにならなかった。飯が食えるようになって、いい車転がして、俗にいう表面的な成功というのは、27で手に入れましたよ。だけど、ちっともハッピーじゃないの。なんで? 神様、僕に言ったじゃない、成功手に入れたら、今までの不安なこともクリアにしてくれるって。「なんで?」って思ったとき、「気持ちがいい」とか「ハッピー」というのは、別のレールがもう一個あって、それは仕事で手に入れたり、成功で手に入れるものではないんだ、ということに気づいたんですよね。そのときからです、「幸せって何だろう?」って真剣に考え始めたのは。
いまさらだけど、ぼくもよく考えるようになりました。しあわせって何だろう、って。矢沢さんは「それは仕事で手に入れたり、成功で手に入れるものではないんだ」って言ってますが、イスラエルで栄華を極めたソロモン王も全く同じことを言ってます。ソロモン王は一つの結論を得るのですが、それはわかる人にしかわからない究極の答えでした。
以前、このブログで紹介したノヴァーリスの詩、
すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
きこえるものは、きこえないものにさわっている。
感じられるものは、感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。
この詩は理学博士、佐治晴夫さんの「宇宙の不思議」という本の巻末に紹介されてたもの。これはまさに、星の王子さまの中でキツネが言った「大切なものは目に見えない」と同じですね。その佐治晴夫さんがある対談本で、ぼくが数日前にブログに書いた、星の王子さまの「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから」に言及しているので以下に抜粋します。
「心がそれを認識したとき、実在が実在となる」という現象は、理論物理学の言葉を用いるなら、波動関数の収縮として記述されるでしょう。また、哲学的にはこうも説明できますね。例えば、傘が傘として意味を持つのは、雨から身を守ることができたとき。けれど、雨が降っていないときや、濡れても気にならないとき、傘は傘として実在しない。傘を傘として存在させるのは、ただ心のあり方なのだ。同じように、いま何時だったとしても、ただそれだけでは私にとって意味はない。けれど「二時に誰かと会う」と決めたとき、「二時」という時刻が、私にとって特別な意味を帯びてくる…。ちなみにサン・テグジュペリの『星の王子さま』は、まさにそのことをめぐる物語なんですよ。王子さまとキツネの会話を読み解いていくと、「心がその人を存在たらしめている」ということが、 重要なテーマになっていることがわかります。 物語では、砂漠に独りぼっちで降り立った王子さまが、さみしくなって、キツネに「ぼくと遊ばないかい?」といいますね。すると、キツネは「おれ、あんたと遊べないよ。apprivoiséしていないんだから」と答えます。この部分は、従来は「飼いならされちゃいないんだから」と訳されていますが、フランス語原文の「apprivoisé」には、実はもっと深い意味があるんですね。
中略
キツネは、「仲よくなる」とは、自分が相手を選び取ることによって、「あなたが私にとってかけがえのないひとになる」ことだ、と告げています。つまり、それは「あなたという存在が、私にとって実在になる」特別な状況なのだ、といいたいんです。それが「apprivoisé」という言葉に託されているんですね」
佐治晴夫さんは理学博士なので量子力学の観測問題に準えて話されてます。ぼくには飼いならす側と飼いならされる側には上下、主従関係があるように思えるので、この場面にはふさわしくない言葉のように思えて気になっていたのですが、考えているうちに、以前このブログに書いた、福岡伸一さんの本にかいてあった「キミは珍獣と暮らせるか?」という元ペットショップオーナーの本を思い出しました。以下、ぼくのブログの記事「逆説の発見」から。
福岡伸一ハカセの「生命と記憶のパラドクス」という本を読んでたら、こんな記事が目に留まった。
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最近、とても面白い本を見つけた。『キミは珍獣と暮らせるか?』(飴屋法水 文春文庫PLUS)。著者は元ペットショップオーナーで、珍しいペットを求める人に厳しくその覚悟を説いている。珍獣を、「駄獣」(つまらない。例えばミミズ)、「難獣」(飼育が難しい。例えばモグラ)、「弱獣」(すぐ死ぬ。例えばヒヨケザル)、「猛獣」(文字通り凶暴。例えばヤマネコ)、「臭獣」(クサい。例えばヤマアラシ)に分類する。内容は類まれなる生命論にもなっている。生き物に値段をつけ、自分の所有物とする。それは自然物を人工物として扱うこと。だから本来、不可能な行為、さらにいえば狂った行為であると。しかしそこからしか発掘できないものがある。それが生き物を飼うことの意味だと。生き物を飼うこと。それは見下ろされ、支配され、そしてそのことによって、私の方が支えられているという逆説の発見なのだ。
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筆者は言う。しかしそこからしか発掘できないものがある。それが生き物を飼うことの意味だと。
ぼくはこれを読んで甚く感じ入った。結婚も同じではないか、と
今読み直してみると、ぼくはここで「結婚も同じではないか」とつぶやいている。飼いならすことは同時に飼いならされることであり、両者は対等な関係なのだ。と。そこでぼくは愛すべき人に言いたい。キツネが王子さまにお願いした、あの言葉を。
「ねえ、ぼくを飼いならしてよ」
星の王子さまは砂漠に不時着した飛行士の一人称の視点で書かれている。ぼくは違う訳者による6冊の「星の王子さま」を持っているけど、そのうち5冊の語り手が「ぼく」あるいは「僕」だ。ところが先日買った倉橋由美子さん訳の星の王子さまの語り手は「私」。王子さまは他の5冊同様「ぼく」。たったこれだけのことで読んだ印象が驚くほど違う。ほかの5冊に比べ、それぞれのキャラが立ち、キャラ分けもうまくいっている。他の訳は語り手が「ぼく」で語り、対する王子さまも「ぼく」で話す。訳者としても気になるのか、語り手を「僕」、王子さまを「ぼく」と分けているものや、語り手を「ぼく」王子さまを「ボク」としているものもある。で、何が言いたいのかというと、倉橋由美子さんの訳した「星の王子さま」は、その訳し方で気になるところもあるけれど、ぼくの目には新鮮に映って、けっこう好きかも。うふ
せっかくの休日なのに朝から雨。雨の日のドライブも悪くないのだけど、今日はなんだか気分が乗らず、久しぶりに街に出ることにした。
レストランで昼食をとった後、映画館へ。どれでもよかったのだけど、アレサ・フランクリンのがおもしろそうだったのでこれにした。
映画館の近くで本を買った。倉橋由美子さん訳の星の王子さま。家に帰ってこの方の訳者あとがきを読んでびっくり。内藤濯さんや、ほかの方の訳でもずっと気になっていた、砂漠で出会ったキツネの返答
「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから」
が、クローズアップされており、かなりキビシイことが述べられている。王子さまから「いっしょに遊ぼう」って誘われた際にキツネがこう答えるのだけど、この「飼いならされる」という言葉がどうもしっくりこなくて長い間ずっともやもやしていたのです。以下抜粋
王子さまが一緒に遊ぼうといったときに、狐は、「君とは遊べない、自分はまだ飼いならされていないから(Je ne puis pas jouer avec toi, dit le renard. Je ne suis pas apprivoisé.)」といいます。
中略
狐は王子さまに「飼いならしてほしい」といいますが、これは、「自分を飼いならして愛人のような関係を結んでほしい」ということです。王子さまが自分の星で面倒をみていたという花も、実は同じような存在なのです。しかし、この花の愛人はなかなかわがままで要求が多いので、王子さまはついに嫌気がさして、彼女を捨て、彼女から逃れてほかの星を巡歴する旅に出た、ということです。王子さまを無邪気な天使のような子供だと思って読んでいると、あれあれ、これは男(もちろん大人)がよくやることだと気がついて、にやりとしそうになります。
ひえー!ロマンチストのぼくにはかなりシビアな解釈。きっとこれは訳者の誤解でしょう。でも今日みたいな雨の日にこういうのを読むと、かなり落ち込みます