夢のまた夢

昼過ぎ、某国営放送でタルコフスキーのサクリファイスをやってたので、録画して見た。ぼく的にはツボであったが、いっしょに見てたヨッパライ某は、つまらん、と言って、すぐに席を立った。たぶん、そのつまらなさが、ぼくにはたまらなく心地良いのだと思う。ちょっと前、他人の夢の中に忍び込んでいく映画があったが、そこでは、夢の中で見ている夢に潜入する様子が描かれていた。さて、ぼくたちのいるこの世界は果たして現実だろうか。夢じゃないのか。数年前になくなった動物行動学者の日高敏隆さんは、すべてはイリュージョンである、と言い切っていた。イリュージョンなしに世界は見えないのだと。ユクスキュルの環世界を知っている方ならうなずけるはなしだ。となると、ぼくたちは、夢の中で夢を見ているようなもの、といえるかもしれない。サクリファイスは現実と幻想をあえて分けてないようにみえる。すべて現実のようで、現実の中の夢のようで、すべて夢のようである。だからそこではベッドが宙に浮いても違和感がない。幻想、幻影とぼくたちの信じている日常的現実にどれくらい違いがあるのだろう。映画の最後で、それまで声が出なかった子供がこういう。「初めにことばありき。なぜなのパパ?」つまり、作者はこう言いたかったのだと思う。われわれは幻想の中で生きている。言葉だけが現実なのだよ、と。ちなみに精神科医、斉藤環さんは「幻想の対義語は言語です」と言っている。
 私たちは影でないものなど愛せるだろうか(ヘルダーリン)

立ち止まらせるもの

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ぼくの仮想的統計によれば、約75パーセントの女性は、ほとんど無意識的にケーキのショーケースの前で立ち止まり、中を窺う。それと同じ衝動で、ぼくは崩れた崖の前や、崩れかけた石積みの前で立ち止まり、佇む。

バッジになりました

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吾輩はネコである。なまえはチェルシー。
ふつーの人間の女の子と二人で暮らしてる
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その彼女が、このたびボクのバッジを作った。
それをツイッターで披露したら、またたく間に大評判。そういうわけで、今日は、それが欲しいという某珈琲店の店主に届けに行ったらしい。だからボクは、家で一人留守番

山を歩く人たち

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登山道を歩いていると、すれ違う人に挨拶をされる。ぼくも挨拶するが、なんだか恥ずかしい。照れる。しかし、やってくる相手が明らかに初心者で、同じように照れていることがわかると、ふっ、キミたち何を照れてるんだね、というベテランみたいな態度で挨拶する。

秘せねば花なるべからず

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暗闇の中、雲の向こうで月がぼんやり光っている。輪郭を失って齢はわからない。いつもの月よりもおもしろく、いつまでも眺めていたら、すっかり体が冷えてしまった。

ローソクの日その6

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わが家には仏壇はない。が、派手に立派なローソクはある。今日は年に一度、そのローソクを灯す日だ。今夜は焼肉だった。テーブルの中央にガスコンロ、そしてテーブルの端では、この巨大なローソクがムードたっぷりに燃えていた。ビールで乾杯した後、肉をグリルにのせながらぼくは言った。このローソク、けっこういい値段がしたんだろうな。すると妻が、10000円だったわよ、と言った。へぇー、原価は2000円もしないんだろうけどね、でも、もう元は取ったかもよ。(こうして毎年楽しませてくれるんだから)と、ぼくが言うと、妻は、えーー?私はこんなの要らない、って係りの人に言ったのよ。そしたらタダでいい、ってことになったの。私は10000円も出すんだったら、おいしい料理を食べに行くわ。と言った。すると向かいにいた娘が、あたしも要らないわ、と冷めた口調で言った。

フォースを信じるんだ

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ルークスカイウォーカーはもう少しでダークサイドへ落ち込むところであった。しかし、あの耳のとんがった妖怪みたいな師匠のおかげで危機を免れた。ダークサイドは弱った人の心を強く引き寄せる。
怒り、悲しみ、嘆き。
引き寄せられた弱った心は引力に囚われた月のように、希望のない星の周囲を永遠に周り続ける。耳のとんがった師匠は謎の呪文を唱え、囚われかけた弟子を蹴飛ばす。弟子はよろめいて軌道を外れ、スイングバイして新たな世界へと旅立っていく。(なんのこっちゃ)

廃墟ガーデンその2

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庭にススキを植えよう、と思う。でもいまだに決心がつかない。
以前書いたけど、廃墟には不思議な魅力がある。そして、そこに生え伸びたススキが茫々たるムードを一段と盛り上げる。ススキは人間的秩序と宇宙的秩序の境にある。
よーな気がする。
そこでその表現として庭にススキを植え、放っておきたい。
つまり、簡単に言うと、ぼくは何もしたくない。
レッセフェール