市場原理の問題点とエイプリルフール
お客さんから、おもしろいから読んでみて、と渡された本。おもしろかったけど、読んだ後、頭のすみにイヤなしこりが残った。著者の目的がそれだからその意図はまんまと成功している。でも、今のぼくはそれを望んでいない。春だから。春は何もなくても心の安定を欠く。というわけで、にわかに湧き上がった心の中の暗雲を吹き払うべく、しばし沈思黙考。やがて思い立ち、マイケルサンデルのあの本を読み返してみる。この本は正義について語っている。そして市場原理主義についてもその観点から分析しており、件の本の提起する問題の闇に光を投じる。読み進んでいくとカントの理性の話しが出てくる。カントによれば、どんな場合でもウソをついてはいけないのだそうだ。今日のぼくはカントの意見に従いたい気分だった。心の暗雲の問題ゆえに。そういうわけで、今日はウソをつかないことにしたのだった
10年後のぼく
このブログを書き始めたのが2005年の4月。10年前。10年前のぼくは今のぼくより10年若かった。というわけで、時を遡り、10年前のぼくに会ってきた。といっても、ブログの上でのことだけど。彼は若かった、というより、軽かった。もっと言えば軽薄。今も変わらないが、ぼくの特徴といえば軽薄なところ。みたところ、軽薄なぼくは低空飛行を得意としているようだ。落ちそうで落ちない。沈みそうで沈まない。Fluctuat nec mergitur.10年前のぼくはそれに気づいていないので、せっかくの軽さをうまくコントロールできていない。時に重厚さや深みを演出しているところが笑える。そしてこの記事を10年後のぼくが読む。いや、読めるかどうかは分からない
iPodモドキ2
さらばオリオン
さくら餅のかほり
オレンジの午後
アドラーな午後
夜の山桜
晴耕雨読的午後
朝から雨が降っていた。春の雨。ちなみに晩飯のおかずは春雨だった
仕事の合間に、お借りした本を読んだ。読む本にもよるけれど、やはり読書は大事だな、と思った次第。以下、本文より
「ユマニチュード」という言葉は、フランス領マルティニーク島出身の詩人であり政治家であったエメ・セゼールが1940年代に提唱した、植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ”を取り戻そうと開始した活動「ネグリチュード(Negritude)」にその起源をもちます。その後1980年にスイス人作家のフレディ・クロプフェンシュタインが思索に関するエッセイと詩の中で、“人間らしくある”状況を、「ネグリチュード」を踏まえて「ユマニチュード」と命名しました。 さまざまな機能が低下して他者に依存しなければならない状況になったとしても、最期の日まで尊厳をもって暮らし、その生涯を通じて“人間らしい”存在であり続けることを支えるために、ケアを行う人々がケアの対象者に「あなたのことを、わたしは大切に思っています」というメッセージを常に発信する… つまりその人の“人間らしさ”を尊重し続ける状況こそがユマニチュードの状態であると、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティは1995年に定義づけました。 これが哲学としてのユマニチュードの誕生です。
ユマニチュードを紹介したテレビ番組。劇的な展開に思わず目を瞠ります