高校生のときだったと思う。わが家に、その当時流行していた4チャンネルのステレオ装置がやってきた。ぼくは小遣いで買った井上陽水のレコードを日夜かけては深く感動していた。ぼくが「愛は君」という名曲を大音量で鳴らしていたときのことだ。父がやってきて、そんな恥ずかしい歌をかけるのはやめてくれ、近所に聞こえるじゃないか、と言った
いちばんだいじなこと
二人の世界
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう (岸見 一郎、古賀 史健 著 嫌われる勇気 より)
愛し合う二人は、まずこのあたりから学ぶべきでしょう
フローズン
今週は荒井由美の「ひこうき雲」を何度も聞いている。ぼくにとって音楽は薬のようなものだから、そのときのメンタルコンディションに合わせて適切な音楽を選び、処方することになる。だから繰り返し同じ曲を聞くというのは、ぼくの中の特定の箇所が微熱を発していることを意味する。かも。さて、彼女のエッセイ集、ルージュの伝言に、「ひこうき雲」を作った動機が書かれているのだけど、初めてこれを読んだとき、ひどくがっかりしたのを憶えている。ぼくが脳裏に描いていた「ひこうき雲」のイメージからあまりにかけ離れていたものだから。でも今は違う。彼女のエピソードを知った上で聞く「ひこうき雲」がとてもいい。以下、松任谷由美のエッセイ、ルージュの伝言より抜粋しますが、あるいは読まないほうがいいかもしれません。
小学校のときの同級生の男の子に、筋ジストロフィーの男の子がいたわけ。子供だからそんなむずかしい病名はわからずに、なんかリハビリみたいなことに早びきをしてよく行ってるなって感じだった。すごい金持ちのうちの子でね。親が年取ってから生まれた子だったらしい。家にプールつくったりしてたのよ。公立だから、ほんとに貧しい鼻たれ小僧もいて、みんなでそこんちに泳ぎに行ったりしてたのよ。それだけにすごいわがまま坊主でね。足が悪いわがまま坊主なのよ。私、たとえばお掃除で机を運んだりするときにね、「そういう足の悪いふりをするのはやめなさいよ」とかってその子にいっちゃうのよ。それ、優しさだと思っていうのね。ほんとはできるんでしょっていう気が、そんな単純な心理じゃなかったのかもしれないけど、あったんだと思う。そうすると親が「あの子はほんとにできないんだから、そういう傷つけるようなこと言わないでくれ」っていいに来るわけ。私、先生に呼ばれて、「どういうつもりなんだ」っていわれたことがあったんだ。その子が高校一年のときに死んだの。お葬式に呼ばれて行ったら、写真が、もう知らない写真になってるわけよ。小学校以来全然会ってなかったから。私は小学校のときの友達とかには会いたくないほうだし、私立に行っちゃってたからみんなに会うのは久しぶりだったの。そのときに期せずして小学校の同窓会みたいな感じだったんだ、そこの雰囲気が。そのとき思ったの。ああ、結局昔のことっていうのはフローズンになっちゃうんだな、と。写真とかだけが大人の顔しててさ、高校生の顔しててさ。それでそのことがけっこうインパクトがあってつくった歌が「ひこうき雲」って歌。