情けない男シリーズ

151123_11 カーヴァーの短編集を読んでいると、これでもか、というくらい「情けない男」が登場してくる。この本を訳している村上春樹は解説の中で、これら情けない男を主人公として扱っている作品群を特に「情けない男シリーズ」と命名し、類別していた。村上春樹はこのシリーズのどの男たちとも、自分自身を重ね合わせることはなかったのだろうと思う。なにせ彼らは救いがたく重度に情けないのだ。しかしぼくは、これら「情けない男」のなかに、かなりの頻度で自分を発見することになってしまった。そのたびにぼくは、こうつぶやかずにはいられなかった。やれやれ

明るい朝

151119_01 いつもより早く目が覚めた。朝は例外なく憂鬱。死にたくなるほどひどいこともある。それが持ち前の暗い性格から来るものなのか心の病気なのかは分からない。ドアを押し開けてベランダに出た。空が気持ち悪いくらい青かった。何かまずいことが起きる前触れじゃないかと不安になったが、たぶん、気のせいだろうと気を取り直し、洗面所に向かい、顔を洗った。出勤まで時間がある。何をしようか。ぼくは先日図書館から借りたレイモンド・カーヴァーの本をつかんで娘の部屋に行き、椅子に腰掛けた。部屋は娘が出て行ったときのままになっている。この部屋は朝日が差してきて、午前中はとても明るい。短編を二つ読んだ。それぞれの主人公に共感できて、とても愉快な気分になった。こんな明るい朝は久しぶりだ

“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

以下、精神科医の斎藤環さんがリンクを張っていた記事に胸を打たれたので貼り付けます

“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

アントワンヌ・レリス

「金曜の夜、あなたたちは私にとってかけがえのない存在であり、人生の最愛の人である、私の息子の母親の命を奪ったが、あなたたちは私の憎しみを得ることはできない。あなたたちが誰なのかは知らないし、知りたくもないが、あなたちの魂が死んでいることはわかる。あなたたちが盲信的にその名の下に殺戮を行っている神が、人間をその姿に似せて作ったのだとしたら、私の妻の体の中の銃弾のひとつひとつが彼の心の傷となるだろう。

だから、私はあなたたちに憎しみという贈り物をしない。もっともあなたたちはそのことを望んだのだろうが、憎しみに対して怒りで応えることは、今のあなたたちを作り上げた無知に屈することを意味する。あなたたちは私が恐怖におののき、同じ街に住む人々に疑いの目を向け、安全のために自由を差し出すことを望んでいるのだろう。あなたたちの負けだ。何度やっても同じだ。

私は今朝、彼女に会った。ようやく、何日も幾夜も待った後に。彼女はその金曜の夜に家を出た時と同じように美しかった。12年以上も前に狂うように恋に落ちた時と同じように美しかった。もちろん、私は悲しみに打ちひしがれている。あなたたちのこの小さな勝利は認めるが、それも長くは続かない。彼女はこれからも毎日私たちと一緒にいるし、私たちはあなたたちが永遠に入ることのできない自由な魂の楽園で再会するだろう。

私と息子はたった二人になったが、それでも世界の全ての軍隊よりも強い。それに私はこれ以上、あなたたちに費やす時間はない。そろそろ昼寝から起きてくるメルヴィルのところに行かないといけない。彼はまだ17ヶ月で、これからいつものようにおやつを食べて、いつものように一緒に遊びに行く。この小さな男の子はこれからの一生の間、自らが幸せで自由でいることによって、あなたたちに立ち向かうだろう。なぜなら、そう、あなたたちは彼の憎しみを得ることもできないからだ。」

Post Original : Antoine Leiris, “Vous n’aurez pas ma haine”, 2015/11/16 21:18, https://www.facebook.com/antoine.leiris/posts/10154457849999947

Traduit en japonais par Dominick Chen


バードマンその2

151116_08 何日か前、前から読みたいと思っていた本が図書館に入っているのを知り、それを予約した。この夏に出版されたもので、以来、図書館の蔵書検索でずっと検索し続けていたのだけど、なかなか入ってこなくて、ほとんどあきらめていたのだった。ちなみに斎藤環という精神科医の「オープンダイアローグとは何か」という本。すでに誰かが借りていて、少し待たねばならなかった。たった一冊借りるのも無駄な気がして、ついでにレイモンド・カーヴァーの作品を4冊予約した。昨日、近くの公民館に予約した本を取りに行ったのだけど、残念ながら肝心のオープンダイアローグは準備できてなかった。レイモンド・カーヴァーを読んでみたいと思ったのは、以前見た映画、バードマンの冒頭に出てきたレイモンド・カーヴァーの詩、

たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう。
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること。

に興味を持ったから。この「自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること」がいかに大事なことであるかを、ぼくは最近、やっと気づいた。目からうろこが落ちる思いだった。レイチェルカーソンの言葉に「知ることは感じることの半分も重要ではない」というのがあるけれど、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること、は、ぼくの場合、一度死んでみないと分からないくらい難しいことだった

飛ばしている二人

目の前を二人乗りのスポーツカーが走っている。通勤時、時々いっしょになる馴染みの車だ。どんな人が運転しているのかは知らない。でも音楽の趣味は知っている。彼(彼女)は邦楽は聞かない。今日はBRIAN SETZERのダーティブギをかけながら、スポーツカーらしいきびきびしたハンドリングで目の前を走っていく。よほど大きな音で外に音楽を撒き散らしながら走っているのだろう、と思われるかもしれないが、そうではない。特に今日は雨が降っているので、どちらの車も窓を閉ざしている。聞こえてくるのはスポーツカー特有の乾いた排気音くらい。ではなぜ彼(彼女)の車の中でかかっている音楽が分かるのか。得意の超能力? ぼくは通勤時、iPodから車のラジオに電波で飛ばして講義、講談などを聞いている。でも、トランスミッターの出力が弱いためか、同じ周波数で強い電波を出している車に接近すると、そちらの電波を拾ってしまう。じゃあ、周波数を変えれば、と思われるかもしれない。でも変えない。いい趣味とは思えないが、なかなかおもしろいんでね

ヘレンケラーと水

151109_09 タルコフスキーの映画では「水」が何か重要な意味を持つもののように扱われている。彼の描く世界は霊的な力を持った水に支配されているかのように見える。あまりに慣れ親しんでいるからその非凡さに目を瞠ることはないけれど、考えれば考えるほど水というのは不思議な物体だ。水とはいったいなんなのか。深く考えると頭から煙が出そうになる