暖かな一日

151221_02 明日は冬至だそうだ。そういうわけで、海のそばのスシ屋で安い方のスシでも食おうということになった151221_01 たまにはウニやイクラが入っているスシを食いたい151221_03 海のそばのレストランにも寄ってみたが、まだ営業してなかった

貝殻

151214_08 貝殻を耳にあてると海の音が聞こえる。たしかにそんな風に聞こえるので、ぼくはそれを信じていた。ぼくにそれを教えてくれたのは母だったが、彼女の話によると、その海は山の向こうにあって、いつも強い風が吹きあれている。貝を耳にあてると、その音が増幅されて聞こえるのだという

土曜の午後

151205_01 男は言った。青いシュークリームを選べば話はここで終わる。君はいつものように自分のベッドで目覚め、いつもと変わらない日々が君を待っている。 赤いシュークリームを選ぶなら…君は真実の世界を見ることになるだろう。

今あなたは問いを生きて下さい

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今年の夏ごろ、斎藤環という精神科医がおもしろそうな本を出した。それは「オープンダイアローグとは何か」という本。以下、amazonの紹介文から

なぜ人は、“対話”だけで回復するのか。依頼があったら「24時間以内」に精神科の「専門家チーム」が出向く。そこで患者・家族・関係者をまじえて、状態が改善するまで、ただ「対話」をする――。フィンランドの一地方で行われているシンプルきわまりないこの手法に、世界の注目が集まっています。この手法に、かねて「人薬(ひとぐすり)」の効用を説いていた斎藤環氏が魅入られました。

読んでみると予想以上におもしろく、実にスリリング。示唆に富む指摘やアイデアが随所にあって、おかげで付箋貼りまくりでした。さて、このオープンダイアローグの手法を支えているのが「言語とコミュニケーションが現実を構成する」という社会構成主義的な考え方。巻末の用語解説によると、
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「現実を言語が構成している」という考え方のルーツは「言語論的転回」と呼ばれる西洋哲学史における巨大なパラダイムシフトだった。それまで言語は、世界を記述するための透明なメディアに過ぎなかった。しかし言語論的転回以降は、言葉が単なる記述のツールではなく、独自に意味を産出しながら現実を構成する手段であるという考え方が一般化したのである。
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この、「言葉が単なる記述のツールではなく、独自に意味を産出しながら現実を構成する手段である」という見解には、今更ながらハッとさせられます。まったく、言葉って、いったい何なんでしょう…といいつつ、それを考えるのにも言葉を使っているわけで。なんだか中途半端な記事になってしまいましたが、実をいうと今日、一番書きたかったのは下の文章だったのです。備忘録として。「オープンダイアローグとは何か」の中で引用されていた文章ですが、ぼくはこの文をいつでも、思いついたときに読めるようにしておきたかったのです。

あなたはまだ本当にお若い。すべての物事のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです、あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを。そうして問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。今すぐ答えを捜さないで下さい。あなたはまだそれを自ら生きておいでにならないのだから、今与えられることはないのです。すべてを生きるということこそ、しかし大切なのです。今あなたは問いを生きて下さい。そうすればおそらくあなたは次第に、それと気づくことなく、ある遥かな日に、答えの中へ生きて行かれることになりましょう。

リルケ (著), 高安 国世 (翻訳) 若き詩人への手紙・若き女性への手紙