朝起きて屋上に上がると、世界の様子が変化していた
日曜日なのに、しかも大雪だというのに、ぼくは仕事。店の前の通りも派手に吹雪いていた
店の向かいの赤い門。雪でよく見えない。高台にある自宅周辺の積雪がひどくなったらバスで帰るつもりでいた。ところが、バスは3時で運休となってしまった
閉店後、雪の降りしきる夜道を自宅へと急いだ。急がないと高台ではすぐに雪が積もる。大雪のせいか、車はほとんど走っていない。路面は雪に覆われて真っ白。交差点で停止しないよう、スピードを調整しながら走る。上り坂で止まるとスリップして発進できなくなるから。スピードをキープし、ドリフトしながら交差点を曲がっていく。わが家が見えてきた。いつもならバックで駐車するのだけど、止まると動けなくなるので頭から突っ込む。やれやれ、家に帰るのも命がけだ
夜中の12時ころ、外に出てみたら月が出ていた。昼のように明るくてびっくりした
幻日
冬は憂うつ
冬だな
お昼過ぎにいらしたお客さんの話
昼過ぎにいらしたお客さんの話。年末にテレビが壊れた。購入した電気店に修理に来てもらい、部品を取り換えたが治らなかった。それで別の部品を取り寄せて交換したが、やはりだめ。ぼくたちはテレビのない日々を過ごした。だがそれは思いがけず新鮮な日々だった。そしてしみじみ反省した。ぼくたちの生活はテレビに洗脳され、コントロールされていたのだと。でも、テレビの修理が終わったとたん、もとの生活に戻ってしまった
金曜日の午後
異郷
それ以来私は一箇の漂泊者となった。そしてあの薄靄に包まれたすべての遠い丘の上に立った。その丘々もまた冷めたく堅く鮮やかだった。しかしかなた、もっと遥かなところには、またしても幸いに満ちた碧い遠方の風景が予感に溶けて横たわっていた、――さらに一層けだかく、さらに一層あこがれの思いをそそるように。それからもなおしばしば私は彼らの誘惑に出会った。私はそのまどわしに抵抗しなかった。彼らのうちに故郷を感じ、近い目前の丘にたいして他郷のものとなった。そして今私はそれをこそ幸福と呼ぶのである。かなたへと身を傾けること、広々とした夕暮れのおちかたに碧い平原をみとめること、そして冷ややかな近隣の地をしばしば忘れ果てること、それこそは幸福である。それは私が少年時代に考えていたのとはいくらか違った、何かしら静かなもの、何かしら寂しいものであって、美しくはあるが、笑いさざめくそれではない。自分の静かな隠栖の幸福から、私は次のような知恵を学んだ。それはあらゆる事物の上に隔たりの綿毛を残して置くということ、何ものをも日常平凡な接触の冷たい無残な光に当てないということである。そしてすべての物に軽く、そっと、注意深く、うやうやしく触れるということである。
これはヘッセの随想集、さすらいの記から抜粋したもの。今朝これを読んでいて、ふと以前このブログで紹介した、あの言葉を思い出した。「自分の故郷をいとおしむ者は、まだ未熟者である。どこの土地でも故郷だと思える者は、すでにひとかどの力ある人である。だが、全世界は異郷のようなものだとする人こそ完璧なのである」
これはサン=ヴィクトルのフーゴーという中世の哲学者の言葉だそうで、作家・翻訳家の田中真知さんが「故郷と異郷のはざまで」という記事で紹介されていたもの。ぜひ読んで欲しいのですけど、この記事に登場するケニアの友人の締め括りの言葉は、あの星の王子さまに出てくるキツネが言った、目に見えない、本当に大切な何かを指し示しているように感じられます。田中真知さんが記事の最後で「世界全体を異郷と思う感覚。それができる人が完璧かどうかは別として、日常生活をもふくめて、自己を取り囲む世界の一切が異郷に見える「とき」というのは、確かに存在する。しかし、そんなときぼくが感じるのは疎外感ではなく、むしろ存在という海のいちばん深い底にふれているような不思議に静かな感覚だ」と述べてます。この記事を読んで思うのは、本当に大切な何かは、ぼくのような不注意なものには永遠に隠されていて気づけないのではないか、ということ。でも、あきらめてはいけないですね。とても大事なことだから。ちなみに、ぼくの勘違いでなければ、この世界を異郷とする立場で語っている人を一人知っています。聖書の中のイエス・キリスト
# 10
そーですか
またパソコンが変になった。youtubeで某楽曲を聞いてたら、突如、画面に虹色の縞々が。それが陽を浴びた蛇のウロコのようにギラギラ波打っている。不気味だ。キーボードもマウスも受け付けない。電源ボタンを押し続けて強制終了。しばらく放置してスイッチオン。少々手間取りつつも無事ログオン。ところが、しばらく使っているうちにまた蛇が。ブルースクリーンもなし。これまでにない症状だ。グラフィックボードに問題が発生した可能性が高い。フッ、もうよかろう。と、ぼくは思った。つまり、いよいよ買い替え時が来たのだと。ぼくは愛情をこめてパソコンをポン、とたたいた。いわゆる肩たたき。すると画面に変化が起きた。画面はフリーズしたままだが、蛇がいなくなった。もう一度たたくと蛇が出る。もしや…というわけで、結局、パソコンのふたを開ける羽目に。正直なところ、パソコンのふたを開けるのはもう飽き飽きだ。コード類を引っこ抜き、本体を机に横たえてふたを開ける。怪しそうなところをいろいろいじくりまわし、ふたを閉じ、コード類を元通りにして電源を入れる。そして今これを書いているのですが、今のところ蛇は出ません。だれかが笛を吹かない限り
成人式の記憶
昼過ぎ、珈琲を飲みながら何気なく窓の外を見ると、晴着姿のきれいなお姉さんが俯きがちに歩いていくのが見えた。そうか、成人式か。ぼくは遠い目になってセピア色に変色しつつある自分の成人式を思い浮かべた、はずだったが、自分でも驚くほど何も浮かんでこなかった。ぼくはあせった。寄せる波に砂山が洗われるように、ぼくの記憶もここにきてついに押し流されはじめたのか、みたいな。しかし、思いめぐらして程なく、このブログに自分の成人式の記事を書いたのを思い出した。ブログ内検索で「成人式」を検索すると3つの記事がヒット。その一つが自分の成人式当日の出来事を描写したものだった。成人式の決意、と題したもので、友人たちが「今日から禁煙するぞ」と誓ったという、くだらない記事。それを読んでぼくは訝った。今のぼくにはその記憶がない。思い出そうとしても、何一つ浮かんでこない。ふつうに考えれば、それはエージングに起因するものだから仕方ない、と、苦笑いしつつ納得すべきことなのだろう。しかしここでぼくは脳の記憶システムについて書かれた本の記事を思い出した。それによれば、人間の脳に収まっている記憶はハードディスクなどの記憶媒体に記録したデータとは違い、それを呼び出して再生するたびに編集、加工されてしまう。そして元の記憶はそれに上書きされてしまうのだ。だから、成人式の記憶を思い出し、それを再生した時点で、その思い出はリメイクされ、オリジナルとは異なる記憶になって置き換えられてしまったのである。だからセピア色の記憶の中にそれを探しても見つからない。新しい記憶になってしまったのだから。そういうわけで、もしあなたが大切な思い出をオリジナルなままで保存しておきたいなら、その思い出は決して思い出してはいけないのです