スウィングする夜

160414_01 昼飯を食おうとしてたら、仕事男が柏餅を持ってやってきた。ちゃんと葉っぱも食べるんだよ、桜餅みたいにね、と言って帰って行った。3時のおやつにそれを食べたが葉っぱは食べなかった160414_03 夕食後、土曜日にオープンしたジャズ喫茶に遊びに行った。別室で写真展をやっていたので、音楽を聴きながら写真を鑑賞した。飲み物は、ヨッパライ某は珈琲を、ぼくはハーパーのロックを注文した。なんだかヴァイブの演奏が聴きたくなって、マスターにライオネルハンプトンとかありますか、と聞くと、こんな夜によさそうなアルバムを選んでかけてくれた。いい気分でロックをお代わりし、飲んでいると、突然、ヴァイブの演奏に合わせて部屋がぐらぐら揺れ始めた。 これほどスウィングする夜は、たぶん初めて160414_02

夜のさくら

160407_04 夕食後、小雨がぱらつく中、散歩に出かけた160407_03 暗闇の中でピントを合わせるのは、けっこう難しい。これはたぶん、ブルーベリーの花160407_02昼間、嵐のように風が吹いたけど、桜はまだ花びらを付けていた160407_01

Another World

160405_12 昨日に引き続き、Jさんの店におじゃました。
(写真をクリックすると、大きな写真になります)160405_04 夜は深まっていく。 そして音楽もまた160405_02 壁の向こう側で息づく異世界。 ここではその壁が消えてしまう160405_05 孤独という言葉の意味を身をもって知るとき、ぼくたちは表現することについて何かを知るように思う。
モーリス・ブランショ160405_03オープンまで、あと4日

夜の散歩者

160401_01 夕食後、近くの公園に散歩に出かけた。満開ではなかったけど桜が咲いていた。花の下を歩いていると、いろんな思いが浮かんでくる。立ち止まり、空を見上げる。桜の花の向こうで星が瞬いている。どうしてぼくはここにいるのだろう

初充電

160331_03 ビニール傘が小さいせいで、道端にかがみこんで草花の写真を撮ってたら背中がずぶぬれになった。濡れたわりには大した写真は撮れなかった。そんな自虐的な楽しみが写真にはある160331_01 仕事用のノートパソコンを買い替えて2年になる。常にコンセントにつないで使うので、電池は買った時のまま、机の引き出しに放り込んである。でも、電池は使わなくても自己放電する。二次電池は充電されてない状態で保管すると痛むので、一定時間たったら充電してやる必要がある160331_02 電池をパソコンに装着して起動すると、容量は58%になっていた。思ったほど減ってないので、ちょっと驚いた。最近の二次電池はほとんど自己放電しないようだ。充電の必要はなさそうだったけど、せっかく取り付けたので、70%充電し、電源を切って取り外した

春だったね

ウルマンの「青春」を初めて読んだのは20代半ばだったと思う。この詩をぼくに教えてくれた方は、この詩を大層お気に入りの様子だったけど、ぼくは一読してこの詩が嫌いになった。上から目線の押し付けがましさを感じたこともあるが、ぼくの知っている青春はそんな崇高なものではなかった。おととい、わが春、青春についてちょっぴりつぶやいたけど、ぼくの青春は楽しくも辛いものだった。若者特有の鈍さと不必要に鋭敏な感受性、そして根拠のない自尊心。そのバランスが病的に悪くて、日々悩みに悩んで頭が変になりそうだった。あの日々は花火のごとく楽しかったが、もう結構。おなか一杯、二度とごめんだ。今は春。地球の北半分は青い春、青春を迎えている。春。それは冬を経て生まれる。冬は死の季節だ。冷たく暗い死のあとにやってくるもの、それが春。大地は一度死んで春を迎える。彼は過去を思い出すことをしない。だから地上の春は、そのつど初心で新しい。ところで、今日久しぶりにウルマンの「青春」を読んだ。いい詩だと思う。でも、「青春」という題は、やはり違和感があった。原題の「YOUTH」のままでいいと思うのだけど

 新井満さんの自由訳による「YOUTH」が読みやすかったので、以下に記しておきます

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