昼飯を食おうとしてたら、仕事男が柏餅を持ってやってきた。ちゃんと葉っぱも食べるんだよ、桜餅みたいにね、と言って帰って行った。3時のおやつにそれを食べたが葉っぱは食べなかった
夕食後、土曜日にオープンしたジャズ喫茶に遊びに行った。別室で写真展をやっていたので、音楽を聴きながら写真を鑑賞した。飲み物は、ヨッパライ某は珈琲を、ぼくはハーパーのロックを注文した。なんだかヴァイブの演奏が聴きたくなって、マスターにライオネルハンプトンとかありますか、と聞くと、こんな夜によさそうなアルバムを選んでかけてくれた。いい気分でロックをお代わりし、飲んでいると、突然、ヴァイブの演奏に合わせて部屋がぐらぐら揺れ始めた。 これほどスウィングする夜は、たぶん初めて
すべての男は消耗品である
夜のさくら
Another World
夜の散歩者
初充電
ビニール傘が小さいせいで、道端にかがみこんで草花の写真を撮ってたら背中がずぶぬれになった。濡れたわりには大した写真は撮れなかった。そんな自虐的な楽しみが写真にはある
仕事用のノートパソコンを買い替えて2年になる。常にコンセントにつないで使うので、電池は買った時のまま、机の引き出しに放り込んである。でも、電池は使わなくても自己放電する。二次電池は充電されてない状態で保管すると痛むので、一定時間たったら充電してやる必要がある
電池をパソコンに装着して起動すると、容量は58%になっていた。思ったほど減ってないので、ちょっと驚いた。最近の二次電池はほとんど自己放電しないようだ。充電の必要はなさそうだったけど、せっかく取り付けたので、70%充電し、電源を切って取り外した
花がいっぱい
アの人
バイク少年の午後
春だったね
ウルマンの「青春」を初めて読んだのは20代半ばだったと思う。この詩をぼくに教えてくれた方は、この詩を大層お気に入りの様子だったけど、ぼくは一読してこの詩が嫌いになった。上から目線の押し付けがましさを感じたこともあるが、ぼくの知っている青春はそんな崇高なものではなかった。おととい、わが春、青春についてちょっぴりつぶやいたけど、ぼくの青春は楽しくも辛いものだった。若者特有の鈍さと不必要に鋭敏な感受性、そして根拠のない自尊心。そのバランスが病的に悪くて、日々悩みに悩んで頭が変になりそうだった。あの日々は花火のごとく楽しかったが、もう結構。おなか一杯、二度とごめんだ。今は春。地球の北半分は青い春、青春を迎えている。春。それは冬を経て生まれる。冬は死の季節だ。冷たく暗い死のあとにやってくるもの、それが春。大地は一度死んで春を迎える。彼は過去を思い出すことをしない。だから地上の春は、そのつど初心で新しい。ところで、今日久しぶりにウルマンの「青春」を読んだ。いい詩だと思う。でも、「青春」という題は、やはり違和感があった。原題の「YOUTH」のままでいいと思うのだけど
新井満さんの自由訳による「YOUTH」が読みやすかったので、以下に記しておきます