お昼過ぎ、騎士団長殺し第1部を貸して下さったお客さんが、わざわざ第2部を持ってきてくださった。わーい、うれしいなーーっと! 仕事を終え、帰宅し、夕食後、さっそく読み始めました。ぼくが読み終えた第1部をヨッパライ某が読み始めたので、食堂テーブルをはさんで二人で読書
プリズム
騎士団長殺し 第1部を昨夜読み終えました。とてもおもしろかったです。第2部をすぐにでも読みたいのですが、1部を貸して下さった方が読み終えるのを待たねばなりません。というわけで1部を読んだ時点での感想ですが、村上春樹の作品で繰り返し展開される、お馴染みの特異な世界観が、今回は専門的な言葉で具体的に説明されているように思いました。例えば表象、形而上、唯物的、といったやや硬めな用語が登場人物の会話の中にさらりと出てきます。さて、村上春樹は今回においても新たな物語を創造しようとしているのではなく、いつからか彼のアンテナを震わせて止まなくなった、五感でとらえにくい、それでいて人にとって何より重要な何か、を平明な物語に翻訳して示そうと腐心しているように見えます。その重要な何かの存在を彼は確信し、その信仰表明を兼ねてこれらの物語を書いているように見えるのです。
村上春樹は、あの、既成の便器を作品として発表したマルセル・デュシャンのいう「アーティスト」に自分を重ねて活動しているように思います。そのうち、既成の便器に匹敵する小説を発表して、世間のひんしゅくを大いに買うのではないかとぼくは期待しています。以下、マルセル・デュシャン「創造的行為」より抜粋。
アーティストは、時空を超えた迷宮をクリアする方法を探す媒介者のようにふるまっているように見える。アーティストを媒介者とみなすならば、彼は自らが美的次元において行っていることを自覚的に理解することはないはずである。彼の創作における全ての決断は、純粋な直観に従っているのであり、自己分析によって記述することも、念入りに考えぬかれた思考として跡づけることもできない。
また、ガウディは次のように言ったそうです。
創造は人間を通して絶え間なく働きかける。しかし、人間は創造しない。発見する。新しい作品の為の支えとして自然の諸法則を探究する人々は創造主と共に制作する。模倣する人々は創造主と共に製作しない。それゆえ独創とは起源に帰ることである。
顕れるイデア編
第1部、今日半分くらい読んだんだけど、とてもおもしろいです。今のところ星5つ
xxxが顕れるまでは。
もも
何か宇宙的なあるもの
今日、ぼくは夢のように思い出す。こんなことも、今では遠い昔になってしまっている。あの二人のフェアリーは、その後、どうなったことだろう?たぶん、結婚したであろう。そうだとしたら、彼女たちは変わったであろうか?娘から女に移るということはきわめて重大なことなのに。新しい家の中で、彼女たちは何をしているだろうか?雑草や蛇を相手の彼女たちの友情はどうなったことだろう?あのころ彼女たちは、何か宇宙的なあるものに関与していたのであったのに。ところが、やがて一日、娘の中に女が目ざめるのだ。すると…
これはサンテグジュペリ「人間の土地」堀口大學訳からの一節。先日、ユーミンのコンサートを見てきた友人の話がちょっと興味を引いた。コンサートの中で、あの頃の私は今の私とは別の誰かだったような気がする、みたいなことをユーミンが話したのだという。ふーん、だろうね。ぼくだってそう思う。サンテグジュペリが言うように、あの頃のユーミン、荒井由実は、何か宇宙的なあるものに関与していた。ところで、先日読んだサンテグジュペリの「夜間飛行」の新訳がとてもよかったので、調子に乗って「人間の土地」の新訳も買ってみた。堀口大學訳は500円だが、新しい訳は1000円もする。出だしはなかなかいい。1000円の価値はありそうだ、うふ。と思いつつ、気に入っている個所をいくつか対比させてみると…例えば前述の、結婚して女になると、という件などは…、堀口大學訳の方が渋くてずっといい。でも、まあいいや。ぶつぶつ
おやすみ
動かなくなった無線ルーターと昨夜遅くまで格闘したおかげで、ひどい寝不足の一日を過ごす羽目になった。人の声がエコーを伴って聞こえる。まるで大きなパイプの中にいるみたい。おやすみ